今来日中のダニエル・バレンボイムとベルリン・シュターツカペレの公演から聴いたものを書いてます。
昨日のブログでは10月12日のマーラーの9番のことを書きました。
今日はこれです。
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2007年10月11日(木)5:00pm
NHKホール
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ワーグナー/トリスタンとイゾルデ
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トリスタン/クリスティアン・フランツ
マルケ王/ルネ・パぺ
イゾルデ/ワルトラウト・マイヤー
クルヴェナル/ロマン・トレケル
メロート/ライナー・ゴールドベルク
ブランゲーネ/ミッシェル・デ・ヤング
牧童/フロリアン・ホフマン
舵手/アルットゥ・カターヤ
船乗り/パヴォル・ブレスリク
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演出/ハリー・クプファー
ダニエル・バレンボイム指揮
ベルリン・シュターツカペレ
ベルリン国立歌劇場合唱団
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豪華な配役。
バイロイトでもなかなかそろいそうもないキャストだ。
さすが日本だけのことはある。
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バレンボイムの指揮するトリスタンは今まで何度か観ているし、録音もバイロイトはじめかなり聴きこんでしまった。
自家薬籠中の物であるためいまさら、ことさら論評を加えてもあまり意味はない。
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第3幕でトランペットの音に導かれてイゾルデが到着するするときトリスタンは少し元気を取り戻すのだが、本当はあすこのトランペットの時点で死んでいるのではないだろうか。と思う。
映画やドラマなどでストーリーが途中から方向転換し、気がついたら夢だったと、観客、聴衆をだます手法があるが、これ何と呼ばれているのか知らないがあんな感じがあるのだ。
例えば、未来世紀ブラジルの最終局面で、脳をいじられそうになった主人公の絶体絶命の瞬間、ロバート・デ・ニーロ扮するハリーと彼の集団が助けにきて、うまく逃げることが出来てハッピーエンドで終わるのだが、その瞬間、夢から覚めたようにうつろな目の主人公があらわれる。トリスタンの第3幕はそんな感じです。
つまり、イゾルデが今ようやく着いたときにトリスタンは既に死に、物語は終わっているような気がするのです。
もう一つの夢の物語は続くのですが、これはマルケ王が、惚れ薬のことを知った、彼らを許しに来た、などと言うため、-ここら辺は予定調和的ではあります- ではなく、そのようなことは道草みたいなもので、結局、イゾルデが愛の死を歌うための前段にすぎないのではないか、とさえ思えてくるのです。
もう一つの夢の中のストーリーが長々と続き、長々と続いても、続かなくてもトリスタンはあっけなく死んでしまうのですが、長々とストーリー展開をすることによって愛の死の局面が最高潮に盛り上がるのです。
それではどこで夢から覚めたのを聴衆は知らされたことになるのか。
それはこのオペラが終わってからのような気がします。
それは二重の意味でそうなのかも知れない。
つまりオペラの終わりの瞬間をもって、これはあすこのトランペットの前で終わっていたのかもしれないと思い夢からさめ、もう一つはこの素晴らしいオペラという全部が夢であったような世界から解放される。
自然さからいったらトリスタンは第2幕で死んでいてもいいわけだし。
まだ生きている第3幕は肥大化された夢物語のようなものだ。
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クプファーの舞台は、クプファーらしくないというか、かなりおとなしいもの。
朽ちた天使のような巨大なプロットが第1幕から終幕まで真ん中に置いてあるだけ。
たまにそれが右に回転したり左に回転したりするだけ。
実に端正なものだ。
ただ、この作りものは大変に丈夫なものであり、その羽根をたたいたり、乗っかたりしてもびくともしない代物。
見た目は昔風、中身は現代風といったところか。
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歌い手はこのキャストなら誰も文句はないだろう。
フランツのトリスタンであるが、個人的にはジークフリートのジークフリート役のイメージ、残像がかなり濃くあり、トリスタンもジークフリートも最後は悲劇的ではあるのだが、ジークフリートのジークフリートでは森の中でもう少し柔らかくて優しさをたたえた感傷的なところがありそちらの役の方が好ましいような気がする。
トリスタンは心の動きの表現という部分で少し重荷であるような気がしないでもない。
マルケ王のパぺは、既に王者の風格だ。
見た目も非常に個性的で歌ともどもいつも素晴らしい。
特に歌、演技ともに完全に余裕があり、それがある種の風格を感じさせる。
まわりの空気が変わるというか。。
空気が変わると言えば、それはイゾルデのマイヤー。
さすがに少しばかり歳とってしまったが、最後の愛の死の絶唱は、もう、ほとんど、リサイタル状態。
あすこのためだけにバレンボイムはオケで伴奏をつけている。そんな感じ。
マイヤーの声は録音ではあまりわからないが、でかい声。
このどうしようもないNHKホールを鳴らしてみせるあたりさすがとしか言いようがない。
ただ、ストーリー的には愛の死があまりにも素晴らしいため全体を俯瞰したときバランス、ウェイトのかかり具合が少し自然ではないのかもしれない。
それもこれも良すぎるためではあるのだが。
ブランゲーネのデ・ヤングは少しばかり重そうだが(声ではなく)、マイヤーと比べると明らかな若さ、良さがにじみ出ている。
配役的には少し明るすぎるかもしれないが歌ではマイヤーの上をいく人はいないわけで、その意味ではいくら頑張っても頑張りすぎることはない。良かったと思う。
クルヴェナールのトレケルはこうして聴けただけでラッキーと思う。
かなりの長身で誠実さが自然に体からにじみ出てくるような感じ。
丁寧な歌であり声も明瞭に聴こえてくる。
ライナー・ゴールドベルクはメロートなどのような役にとどまっている人間ではないはずだが、ちょっと心臓がノミ?
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バレンボイムの指揮はいまさら何も言うことはない。
今となってみれば四半世紀かけて当代随一の偉大なワーグナー解釈者になった。
自由自在に伸縮するテンポ、歌の呼吸は自然でなければならない、オーケストラの伴奏然り。
ある時は歌に寄り添い、忍び寄り、またある時は咆哮する、駆り立てられるオーケストラ。
見事に自由自在、極限まで表現の振幅を追求する、その圧倒的な音作りにいつも感服してしまう。
おわり
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