河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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446- モーゼとアロン 本日千秋楽2007.10.20 DB/SKB

2007-10-20 22:30:00 | オペラ

 

約一か月に及んだダニエル・バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン来日公演も本日が最後となりました。
その最後の日のオペラはとっておきのものでした。

 

2007年10月20日

 

シェーンベルク モーゼとアロン

 

指揮/ダニエル・バレンボイム
演出・美術/ペーター・ムスバッハ
衣裳/アンドレア・シュミット=フッテラー

 

モーゼ/ジークフリート・フォーゲル
アロン/トマス・モーザー
若い娘/カロラ・ヘーン
病人/シモーヌ・シュレーダー
若い男、裸の男/フロリアン・ホフマン
もう一人の男、男、エフライム/
  ハンノ・ミューラー=ブラッハマン
僧/クリストフ/フィシェッサー

 

 

シュターツカペレ・ベルリン
ベルリン国立歌劇場合唱団

 


面白過ぎる。
面白過ぎる理由は簡単で、濃いプロダクションのせいであることは明白。
1974年のブーレーズ/BBCso.でも1984-85シーズンのショルティ/シカゴso.でも1994年の秋山/東京so.でも、わからなかったことが、オペラで具現化され、さらにそれが劇性の非常に濃いプロダクションによって完全に明確になる。オペラの恐ろしさ。

 

それにこのモーゼとアロンの圧倒的存在感。
この二人以外ありえないような巨人族の大巨体だ。
モーゼのジークフリート・フォーゲルは1937年生まれというから70歳だ。
アロンのトマス・モーザーは1945年生まれだから60歳前半。
とにかく大合唱団の中あってもすぐにこの兄弟役たちがどこにいるのかすぐにわかるのだからその存在のものすごさがわかるというもの。

 

この演出は衣裳がかなり凝っている。全員、男も女も、サングラスに黒スーツスタイル。
さらに頭はそりこみがはいったようになっており、おでこの髪が後退している。
男声合唱団員、女声合唱団員ともに全部同じなのでかつらでの対応だろう。
非常にユニークだ。
映画「メイトリックス」のサングラスのワル連中とよく似ている。

 

舞台全体はなにかモノトーンの工場を下から見上げたようになっているのは、なにも前から2列目中央席から観ていたからという理由だけではないと思う。
その白黒なイメージが主体ななかにあってともすれば没個性、時として誰が誰だかわからなくなってしまうなか、モーゼとアロンだけは抜きんでている。

それでと、第1幕が始まったわけであるが、ああ思い出した。
モーゼは語り、アロンは歌う。
語るモーゼは言葉が足りないという。
逆ならわかるが、とにかく滑らかに歌うアロンに語る言葉を託すわけだから設定としては逆説的だ。
それとも、聴く方がいつも音楽というものを主体として考えてしまっているからそう思うのだろうか。

 

進むにつれ焦点は見えない神であるのは明白だが、答がないままわりとストレスがたまりそうになるぐらい神にウェイトがかかった状態になる。
二人の観念論は同時に歌い語るので、字幕はどっちが誰のセリフか一瞬わからなくなるぐらい混乱してくるとはいえ、観念を具体化できないモーゼ、リアリスティックになってくるアロン、それぞれのポテンシャリティーが別々のところにあるのが次第に明白になってくる。
神は見える民衆、見えない民衆がいる、と、ますます想像的な世界にはまりこんでいく。

 

形式の前にやるべきことがある。
というのはシェーンベルクその人の言葉だろう。
テキストがないのでよくわからないが、そのようなせりふはわりとしつこかったが、音楽の流れの中ではあまり気をとめることもなく過ぎ去る。
ただ、このセリフだけは妙に印象に残った。
十二音セリーを作って今演奏しているのに形式からは抜け出せなかったシェーンベルクの心の縛り、みたいなものを感じる。

 

最近になって、1950年だから70年代のいわゆる現代音楽というものを比較的抵抗なく聴けるようになった。
80年代以降はネオな世界になってきてしまい一聴すると昔のクラシックへの回帰現象のように言われたりするけれど、どちらかというとムード音楽に近くなってきているように感じる。
それで、50年代からさかのぼっていく聴き方も楽しくなりつつあるのだ。ちょっとウェットなウェーベルンなんか好きなのだが、曲数が多くないので残念なところもある。
それやこれやでシェーンベルクまで今では気持ちに抵抗なくさかのぼって聴くことができるようになりつつある。昔はただ単にいきりたって聴いていただけだが、それでもモノは残っているので、昔のメディアを河童の蔵から掘り起こすのも楽しい。

 

それで、シェーンベルクのこの未完のオペラであるが、演劇性の非常に強い演出。
最後の局面で全員が小型テレビモニターを持ち、置いて去っていくがあれがどうゆう意味なのかわからないが、ハーリー・クプファーやキース・ウォーナーの演出の常とう手段のようなものを思い浮かべる。
とにかく、オペラの演出は昔とは比べものにならないほど演劇性がテーマであり、これは一時的なものではなく続くものだと思う。
見聴きする方にしてもなにかひとつ音楽を理解、楽しむその方法が一つ増えたようにも思え、演出する方もやりがいがあると思う。
あらたに手に入れたものを葬り去る必要はない。
そのような観点でいえば、モーゼとアロンなんか、演出に光をあててこそのオペラであり、それではじめて国境を越える。
その意味では字幕の貢献度も無視できない。
字幕があれば、事前準備、事前知識なくはいっていけるわけで、オペラにとって絶大な効果だ。
フォーゲルが語るモーゼの言葉はもちろんドイツ語なのだが、なんだかとても深くて美しくさえ感じる。
この巨体にして70歳ともなれば歌だと辛いところもあるかもしれない。
語りが決して楽だとは思わないが、ある部分経験、技術でカバーできるところもあるのではないか。
この語りの調子がこのオペラの十二音階セリーに合わせているものなのかどうかはわからない。
劇的要素を強くするための独自の抑揚が許されているのなら、そうでなくても、深い声が観念論を吐くにはマッチしたものであり、個別にはアクションを求められているわけではなさそうなので、それだけに集中できることもあり、さすがと思わせた。

 

トマス・モーザーによるアロンの歌はどれだけ難しいのだろうか。
楽譜なしで、単一の基本音型とはいえ、どうやって正確に歌うのだろうか。単に機械的な暗譜なのだろうか、それとも別の手段があるのだろうか。もちろん練習は熾烈だろうとは思うのだが。
モーザーは高音から低音までよくでる。高音では昔の活躍の面影がある。
大変に素晴らしい声が出ていると思われるのだが、聴衆の方はそれどころではなく、ストーリーを追い、舞台を観なければならないので、彼の努力は半分しか報われていない。

 

第2幕第3場黄金の仔牛と祭壇の乱痴気騒ぎでは、歌なしの局面がかなり長く続く場面がある。あれはシェーンベルク音楽の真骨頂のように思えるのだが、舞台の動きが曲想とマッチしており、印象的。
アロンが舞台奥で指揮棒無しで指揮しぐさをはじめるのだがあれは一体なんなのだろう。

 

ところで、バレンボイムが鼻のすぐ先で棒を振っているのだが、難しそう、熱をこめるのが難しい。
まずはわきをかためてというところだろうが、彼はこの曲に意義を感じてはいるのだが、その表現はオペラでしか具現化できないと思っているに違いない。
演奏会形式などの公演では、面白さ半減だし、なによりもバレンボイム自身がそれを望まない。舞台の説得力はものすごい。
以前の来日公演でパルジファルを演奏会形式で行ったことがあるは、パルは舞台ではなくイメージであり、そのイメージがあれば演奏会形式で十分だと思ったに違いない。
パルのイメージを持っていない人たちがあの公演にくる可能性はわずかだし許せたのかもしれない。聴いた方も十分すぎるものであったし。

 

モーゼとアロンでは、合唱が印象的。
大変に動きの多い歌なのだが、バレンボイムがうまくコントロールしている。
合唱の方も一番信用できる誰かを始終見ていないと歌いそびれるばかりか、動きもままならなくなる。
中心点がバレンボイムであった。

 

ところで、演奏後、演出のムスバッハが出てきたのだが、一人の聴衆がさかんにブーイングをはじめた。
このような現象はべつにどうってことないが、ただ、そんなにみることのないこのオペラ、十二音階の音楽とはいえ50年前のもの、現代の音楽の多様性などを考えるとき、このブーイングの人物にそれを叫ぶ論拠があるのか是非訊いてみたいと思う。

 


今日は今回の来日公演の千秋楽であるため、恒例のさよならセレモニー付き。
演奏者歌い手合唱団指揮者など全員舞台に上がり、かがみ割り。花吹雪が舞い、はでな幕切れとなった。
おわり