河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

441- マーラー9番 2007.10.12 DB/SKB

2007-10-15 22:26:00 | 音楽

今来日中のダニエル・バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリンの公演のうち、日を追ってではなくバラバラと感想を書いていきます。

今日はオペラ公演ではなく、コンサートから。

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20071012()7:00pm

サントリーホール

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マーラー/交響曲第9

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ダニエル・バレンボイム指揮

シュターツカペレ・ベルリン

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この日はこの曲一曲だけ。

結論から言えば、演奏、オーケストラともに問題があった。

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バレンボイムのマーラーはどうなんでしょう。

彼はどんな思いでマーラーを振っているのでしょうか。

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まず、演奏に関して言うと、そのテンポの速さ。

速いことが問題ということではないが、やや性急過ぎた。

7:00pmの公演と言っても、一曲の場合は遅刻者のことも考えておそめに始まる。

当日も演奏開始は7:10pmで終演が8:25pm

楽章間のポーズを考慮すると正味70分という短い演奏であった。ワルキューレの第1幕とほぼ同じ。

その昔は、このようなテンポの演奏が多かったが、最近の流行か細部に耽溺する演奏が多い中、バレンボイムのテンポは異例であろう。

速いのが悪いのではない。ただ、バレンボイムのかなり大幅に揺れ動くテンポは、マーラーをドラマティックに表現するというよりも、駆り立てるテンポのフレーズに偏ったバイアスがかかるような感じだ。必要以上のバイアス。

例は違うが、塔レコとかHMVのフロアでかかっているバックミュージック。

あれはおそらく高音を異常に強くしていると思うのだが、バレンボイムの解釈はあのようなことを想起させる。

つまり自然ではないなにかに拡大解釈されていると感じてしまう。

ワーグナーのような自然でないもの、それは神とは限らない、そのような解釈のように聴こえてしまう。なにかワーグナーの続きを聴かされているような。

それはそれで歴史的には正しいのかもしれないが、マーラーの9番には、別のイメージを少なからずもっており、それはワーグナー的なものではなく、ウェットとかドライとかとは違うもっと物理的時間の経過の感覚なのかもしれない。

テンポの動きではなく、テンションの高さがハートの高まりを生むようなそのような解釈もあるのではないか。

また例が異なるが、フルトヴェングラーが指揮するとベートーヴェンもブルックナーもブラームスも全部フルトヴェングラー流になってしまうということがあるが、あれに少し似ている。

ベートーヴェンの5番は何が何でも許せるが、ブルックナーの8番のコーダにおける破たんした表現は意見の分かれるところであろう。

楽譜を超えた魂の揺れ動くさまなのか、はたまた狂気の表現なのか。

バレンボイムはそこまでエキセントリックではないが、そのようなことをまた想起させずにはおかない。

ただ、この日の対象となっているマーラーに関して言うならば、フルトヴェングラーと同様、もしかして肌に合わないのかもしれない。何とも言えない。

あるいは、これが発展途上の表現なのか今一つよくわからないが、じゃぁ、クレンペラーを目指せといっても、決してそのような形にはならないであろう。マーラーに関しては。。

クレンペラーは静止した音楽を作ることによって逆に、物理的時間を意識させるようなえたいのしれない解釈を提示してみせた。

バレンボイムはこのような表現に今後もなることはないと思われる。

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今日のもうひとつの問題点は、オーケストラのコンディション。

連日連夜のオペラ公演の合間のコンサートだけにだいぶ疲れているようだ。

前日はトリスタンをやっていることもあり、あまりいいコンディションとはいえなかった。

こんな日もあるだろう。

但し、プレイヤーのコンディションとバレンボイムの解釈とは関係ない。

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バレンボイムにはめずらしくフルスコアが置かれている。

かなり一生懸命見ていたようなのでこの曲、CDも出ているにもかかわらず彼自身、まだこなれていないのかもしれない。

やっぱりベートーヴェンとは違うのだろう。

ベートーヴェンの場合、交響曲も、弾き振りのピアノ協奏曲もバレンボイムはスコアは不要なのだが、マーラーではそうもいかないのかもしれない。

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しかし、だ。

このコンサートを聴いて三日四日たっているが、いまだに9番のふしを口ずさみ、ハミングしているのはなぜだろう。

1楽章冒頭の、人間の呼吸のような自然な二つの連続する降下音。最初から安らぎの音楽を表現するバレンボイム。それは遠い先を見据えたものなのかも知れない。第2主題の出も明確で自然だ。

2楽章のおどけた表現。大きく揺れ動くテンポは時に我にかえることを思い出させる。

3楽章の超高速は第2楽章とは明確な違いを感じさせるに十分すぎる。

そして終楽章における思い余ったような弦の切れ味、頂点に達するギリギリ限界からはちきれる弦の素晴らしさ、さらにコーダ前の最後の強大なオーケストラ全奏。

そして、コーダはまるで第5楽章のように響き渡る。

最後の響きが完全に鳴り終わり、ホールが静まりかえり、静かに始まる拍手。

今日の聴衆はマーラーの聴き方を知っていたようだ。

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いろいろと問題のある演奏ではあったが、最後はハッピーにしてくれた演奏でもあった。

ここらへんが音楽の難しいところなんだが、でも、オペラはだいたいいつもこうだろう。

良いところもあれば悪いところもある。

それらが混然となって一夜の公演の中に次々とあらわれるのがオペラ。

どのようなオペラでも必ず一つはいいところがあるものだ。

それを探しながらの聴衆なのである。

オーケストラ公演は、交響曲という贅肉の最も少ないものであるだけに、オペラなどよりももっと完璧なものをどうしても求めてしまうが、バレンボイムはあるいはオペラのように聴け、とでも言っているのかもしれない。

おわり

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