河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

456‐ 終わりそうで終わらない日本F協会

2007-10-30 22:38:00 | 音楽

昨日に続いて、日本フルトヴェングラー協会のこと。

昨日のブログでも書きましたが、会長の問題点は、自分の趣味(宇宿さんという人への

私淑)を、何の関係もない会員に勝手に広めていること。

さらに悪いことに、その人がフルトヴェングラーと同業であるということ。

なんでこんなふうになってしまったんだろう?

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現在、日本におけるフルトヴェングラー・ファンクラブは3つほどある。

日本フルトヴェングラー協会、

フルトヴェングラーセンター、

東京フルトヴェングラー研究会、

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フルトヴェングラーセンターはついこのあいだ、バイロイトの第九で話題をさらった。

また、東京フルトヴェングラー研究会は、オーケストラ演奏等で直に耳にフルトヴェングラーの音を聴かせてくれる。

それに比べ、1969年創立の日本フルトヴェングラー協会は、最初に書いたような感じ。昨日のブログに書いたような感じ。

他の二つのファンクラブに比べて見劣りがし、その歴史的使命は終焉をむかえつつあり、もうやめたほうがいいのではないか。

3者が営利目的の会社なら、日本フルトヴェングラー協会は、明らかに負けて今頃退場していてもおかしくない。

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でも、そうはならないだろうね。

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日本フルトヴェングラー協会会員というのは筋金入り、ということは全くありませんが、かなりそこそこファンではあるが、別にカネさえ払っていれば適当な時期にブツが送られてくるからそれでいい、という感じなんですね。

昔から値は張っていましたがそんな小金にはあまり興味のない職業の人が多く、はっきり言って、たいしたお金ではないんです。彼らにとっては。。

そんな人たちが多いわけです。

だから誰が会長が、誰を宣伝しようが、無頓着に、フルトヴェングラーのブツだけ注文していればいいわけです。

この前あたりから取りはじめた年会費なんかもたかがしれてるし、別にどうってことはなく、ほかのファンクラブよりだめじゃないか、なんて文句をいうような小物たちはあまりいないんです。

大物というわけではありませんが、どうでもいいというか、無関心なんです。そんなことには。。

だから、この日本フルトヴェングラー協会、まだ当分の間、淘汰されないでこのままいくでしょうね。

話が完全に拡散してしまいましたが、でもそういうことなんです。

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河童は昨日のブログにも書きましたが昭和48年、1973年に会員になりました。

あの頃のヒートな感覚はなくなりました。

もう、惰性で注文です。

何度でも同じものが出てきます。

あまり考えずに注文。

会員歴が長いことが、とどまっている唯一の理由になりつつあります。

完全に、本末転倒状態です。

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そんなところに、宇宿さんが、クナやワルターやチェリなどど同列で斡旋品となっている。

このどうしようもない違和感。

別に彼は悪くありません。全く。。

とうの昔に死んでしまった歴史的な人物たちにまじって、現存する日本の指揮者のことが、声高らかに宣伝されているのです。彼は悪くありません。。

でも、この斡旋指揮者たちは、日本フルトヴェングラー協会ではなく、彼らのファンクラブがあるわけだからそこで騒げばいい。

この協会だけなんでこんなふうによれてしまったの?

どうしようもない終焉の寂寥感を感じます。

でも、書いたとおり、しばらくはつぶれません。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
同感です、同じく会員歴?十年の者です。このとこ... (とおりすがり)
2008-05-07 20:56:53
同感です、同じく会員歴?十年の者です。このところ訳の分からぬ頒布品や斡旋品ばかりで、会報誌や頒布品は毎度誤脱やミスプリだらけ…まともだった事が少ない位です。出所不明の音源、センスのないチープなCDジャケなど、以前のような思い入れが余り感じられず、戸惑うばかりです。会報誌は相変わらず悪文の見本のような独り合点に終始し、饒舌な割に肝心な事柄には触れず文意も不明、読むに耐えません。どうにかして欲しいの一言です。。。
返信する
とおりすがりさま (河童メソッド)
2008-05-07 23:51:43
とおりすがりさま
コメントありがとうございます。

あるとき、フルトヴェングラーのコレクションをほぼすべて処分しました。
日本フルトヴェングラー協会や市井のショップで繰り返し発売される’同じもの’。
あれをもかき集めてもきりがなく、というよりも他の演奏のことに時間を費やすべきと思うようになりました。
フルトヴェングラーは処分しましたが、処分することにより見えてきたものがありました。
それは、彼についてわりと自由自在に文章を書けるようになったのです。真似ではなく。。
変な話、自分の文章を見ていると、本当のファンであったのか、周りの受け売りだったのか、それがわかるようになり

ました。自分は前者であったということがわかりました。フルトヴェングラーの音楽が身についていたのがわかるように

なりました。
捨てて得るものがあったというわけです。というか、処分して気がつくものがあった。となりますけど。
ですから、彼のCDも普通に聴いたりしますが、昔ほどのヒート感はありません。音も良くないですしね。
音が悪くても真意が伝わることは確かにあると思います。素晴らしいサウンドのSACDからどうでもいいような呆れた演

奏も聴かせられることもありますから。でもあえて今からフルトヴェングラーを聴くことはこの先あるのかどうかわかりませ

ん。問題意識のかたまり、そのかたまりが現代と時代を共有するものではなくなっており、同一の問題意識のかたまり

を思い出話で語ることは自分にはできませんし。
ということで、品質の悪くなってしまった日本フルトヴェングラー協会、これを再生させる道はあるのでしょうか。
ソフトが出尽くした今、本当に盲腸のようでありますが、もしかすると協会は昔のままなのかもしれません。変わったのは周りであり、急激な変化とオープンな情報、こういった時代の趨勢に乗ることができなかったといえるのかもしれません。もしそうであれば、変われなければ、終わるしかない。

よろしければ、ほかの日のブログもご覧くださいませ。
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