河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

フルトヴェングラー 対 大木さん

2006-08-27 00:00:00 | 音楽

昔、大木正興さんはたしかこのようなことを言った。

「音楽と政治は別だと言うのなら、何故、第二次世界大戦中の演奏が時代を色濃く反映した解釈となっているのか。言葉の主張と演奏表現が異なるのではないか。」

レコ芸のレビューの言葉だったかもしれない。つまり言っていることとやっていることが違うではないか、ということ。

このように言われると、フルトヴェングラーナマ体験の無い人間たちにとってはその先の言葉が見つからない。しかし、戦争がおこらなかった場合の表現・解釈は、人間界、河童界の誰一人知りうるものはいないのは厳然たる事実である。戦争は現実におこったのだから。だから大木さんの主張は半分以下の確率でしか正しくない。

フルトヴェングラーの壮年期(第二次世界大戦の前)の録音はほぼ皆無。我々が録音を通して聴くことが出来るものは戦中以降が大部分。そしてその演奏解釈は、世界遺産、まさに誰もなしえなかったものではある。しかし、それは戦争という非日常性があったからなしえたものなのであろうか。

例えば1951.10.29エキセントリック・コンサートなど戦後のものを聴いても、戦中のものに負けず劣らず常軌を逸しているし、これが普通だったような気もする。この演奏を聴けば戦中の演奏も、特に戦争意識を感じることなく聴くことが出来るのではないか。エキセントリック・コンサートは戦中体験から継承された演奏解釈だと言うこともできるが、それならば、もっと昔の1922年にニキッシュのあとを継いだのが何故フルトヴェングラーであったのか。音楽表現の才能は戦中に突然開花したものではない。1922年ベルリン・フィル以前の演奏を知る必要があるのだろうが、今となっては将来のタイムマシン頼みだ。

「亡命前夜の、先を急ぐフランク、ブラ2の戦争末期で無ければなしえなかった超絶的な名演」といった字句を一度取り払う必要がある。

残っているライブ録音はCDの時代になっても満足に演奏会一夜の出来事として聴くにはいまだままならない。ライブ疑似体験をするには、散り散りバラバラのCDを寄せ集めて、一夜のものにまとめてから聴くことから始めたい。聴くのは一日に演奏会一日分というのが同時進行的で効果的だ。戦中戦後のものを問わずそのように聴いてみたい。また、フルトヴェングラーはプログラム・ビルディングをかなり重視していたのでCDを聴く順番もコンサートどおりとしたい。イメージが大事だ。

タイムトラベラー河童が聴きたいコンサート

193851日フィレンツェ

ベートーベン エグモント序曲

ブルックナー 交響曲第8

シュトラウス ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら

ワーグナー マイスタージンガー前奏曲

おそらく、ブルックナーのあとに休憩があり、後半がティルで、マイスタージンガーは当地でのアンコールではないかと思う。フルトヴェングラーの場合、ティルを後半に置くプログラムはわりとあり、なんとなくブルックナーのあとの整理体操のような気がしないでもない。ユニークなプログラムである。そして現代の演奏会ではあまりお目にかかることの無い長い一夜のプログラムである。

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