一般紙を意識した興味を抱かせる内容、また品位と節度のあるショーンバークに対して、ドミンゴやゼッフレルリをばっさり切りつけてみせる手厳しい評論のヘナハン。それでも過去や現在から何かを学び、将来の指針を示してくれているようでもある。
エヴァ・マルトンは幸せであると、河童は思う。そして、ニューヨーク・タイムズの第一面に別にどうってこともなく芸術論評を載せ、彼らの記事を読める人たちはやはり幸せであると思う。これがマンハッタンの素直な日常であるとともに、芸術のことも素直に前面に押し出され、文化がはぐくまれる素地となっている。
アメリカの芸術の場は基本的にフランチャイズである。MLBと同じである。各都市にそれぞれ素晴らしいオケとコンサート・ホール、オペラ・ハウスがある。豊かな国である。その頂点がメットやニューヨーク・フィルであることは事実だが、他の都市の実力も看過してはいけない。どこか一つの都市に着目し追いかけてみることを是非勧める。アメリカ音楽、ヨーロッパ音楽に対する間口の広さ、オケの腕、高レベルのオペラ、に驚くはずだ。世界観、視野、が大きく広がる。ヨーロッパ偏向でもよい。でもアメリカを知ることにより音楽の世界観が圧倒的に広がる。広がれば、価値判断基準が多様化し、結果として選択肢が広がり、自分なりの豊かな文化を享受できる。
日本人、日本の評論家、はいまでもヨーロッパ大好きである。別にヨーロッパを否定はしない。クラシック音楽はヨーロッパ・オンリー。テレビ、エンタメはアメリカのパクリ。といった構図は過去の遺物というわけでもない。
亡国の、ときのエンタメ総理の目を覆いたくなる下品な振る舞い、公私混同、プロデューサーに支配された喜劇のプロダクションのタイトルロール。支持率の高さは、曲が終わる前に拍手を始める人たちのその行為とオーバーラップする。音楽的側面からこの誤謬を指摘できる文化的節度をもった評論家などいない。評論家の創造性とは?
1986-10-20(月)
トスカ:エヴァ・マルトン
カヴァラドッシ:プラシード・ドミンゴ
スカルピア:ファン・ポンス
サクリスタン:イタロ・ターヨ