河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1115- ブーイングにブーイング?フライング・ブーイング?

2010-11-17 16:13:53 | 日記・エッセイ・コラム


いきなり結論っぽいですが、
ブーイングの特色は、
「わからない人はブーイングはしない。
わかっていてもブーイングするとは限らない。」
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ちょっとあまりうまく思いだせないのですが、たしか、今年の春の新国立オペラ・パレスで神々の黄昏が上演されたとき、ブーイングが割と多く、それに対しブーイングする連中がいたという現象があったはずです。
キース・ウオーナーの好評であったリプロダクションで、なにをいまさらブーイング?エッティンガーの棒へのブーならちょっとタイミング違うなぁ、みたいな感じで眺めてましたけど。
989- 神々の黄昏
990- 神々の黄昏
992- 神々の黄昏
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何にブーイングしていたのかわからない聴衆も多くいたのは事実で、ブログなどでも、なにあれ?みたいなものは結構あったと思います。
ブーイングにはブーイングの制裁を!
おくての日本人もやるね。やるときは!
みたいな感じ。
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それで、この前ブログにフライング・ブラボー、フライング・クラップのことを書いたのですが、ブーイングをどう思うか、という人がいましたので、ちょっと書いてみますね。とりたてて思うところはありませんけど。(笑)
フライングとブーイングは関係ありませんが、マイナス思考の意思表示というわけでもないので、そこらへんつながりで。もちろん、外国ではフライング・ブーイングありますよ。フライング・ブラボーの南極と北極みたいで、どっちもサムイだけ。
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トップクラスの来日オーケストラ公演のチケット料金は、某サントリーホールの価格つり上げオペレーションのたまもののおかげで、400円のコーヒーも含め、また、アルコールも外国並みにガブ飲み出来るような悪しき文化まで取り込んでくれたおかげで、日本国中流行り病の様相を呈してしまっている現状のなか、最高ランク席がだいたい30,000円前後。
この最高ランクチケットを買った人たちが、来日オケがいくら、ダ演、したとしてもブーイングすると思いますか?
ダ演しないからトップクラスと言うんだよ、といわれればそれまでなんですけど、
30,000円だしたら、どんな演奏でも、今日の演奏は最近まれにみる名演奏でその場所と時間を共有していたんだエヘン、ぐらいがせきのやまでしょう。普通は。
60,000円のトスカでタイトルロールが不出来でも、超絶的名唱歌になっちまう。でないと60,000円が浮かばれない。
この人たち、決してブーイングしません。
ちょっと逆説的ですけど、もともとそのような種族しかそのような席を買えない、ということもあるかもしれません。
もし、別の種族で、1年貯金して最高席をゲット。ダ演だったらブーイングする?
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いずれにしても、表面(おもてづら)的には、最高ランクの席からブーイングなど出たためしがない、少なくとも個人的には聞いた記憶がない。
ブーイングは天井桟敷からしかとんでこないんです。だからルーチン・ワークの日常的ゴアーズの観点が大切というのが普段からの主張ですがこれは横に置いて。
ちょっとややこしいですが、ブラボー・コールはいたるところのエリアから聞こえますが、フライング・ブラボーは決まって奥から。これはこれでブラボー屋などの存在もあるのでこれもちょっと横に置いて。
ただのブーイングとフライング・ブーイングは、とりあえず同じ扱いにしましょう。
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1. ブラボー・コール:全席から
2. フライング・ブラボー:天井桟敷、奥から
3. ブーイング:天井桟敷、奥から
4. フライング・ブーイング:天井桟敷、奥から
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なんだか、仕事で、箇条書きしてこい、という能なし上司みたいになっちまいましたが、まぁ、こんな感じだと思います。
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それで、日本人はあまりブーイングはしない、というのはありますけれど、最近はそうでもなくて、結構意思表示しますよ。オペラでは顕著ですね。つい先月も初台の上演であまりもひどいオケに、オケ替えろ、の声援がとんでました。まぁ、これも奥の席からではありますけれど。個人的にはオペラ・ゴアーズが育つような環境が出来てきて、これも日常化ルーチン・ワーク化したおかげだな、と内心喜びましたけど。
また、日本人はあまりブーイングはしない、という人の中に、現場に聴きに行くこともなくそのようなことを言う人がいる。鮪を喰らってからものを言えということになります。
むろんメディアでは、そんな小五月蠅くて騒々しいもんは商品にしないので間接媒体を通した耳ダンボ、目ダンボでは、話の出元の根拠を明確にしておく必要があります。(例えばバイロイト音楽祭の中継など、かなりリアリスティックで、その放送を30年間毎年聴いているんだ、といったことならいいですが。残念ながら日本のイベントではありませんね。)
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ただやっぱり、
日本人には、悪いものも、けなさない、というDNAがあると思うんです。
つまり、鮪には捨てる部位はないと。
ここまで言っちまうと短絡的すぎるかな。
だから音楽芸術的反応は停滞しているように見え、料理の方は緻密になる。と換言してもいい。どっちも同じことだと思える。
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音楽芸術は許容し過ぎで、悪いもの、不出来なものでも、なにかそこにあるはずだ、光るものがあった、学べるはずだ、ということになっちまう。流行りすたり、流行遅れ、二番煎じ、新機軸が無い、といった批評的観点でそれにくいこんでいけない。
新しいもの作れというのと何か学べる光があるはずだというのは別に背反するわけではないが、後者に力点があるのが日本人のDNAのような気がしますね。
その意味では、来日オケだけでなく国内オケ公演でも現象は同じというのもわかります。
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ヨーロッパだと、現代音楽、オペラ問わず、実験工房的確信犯的な曲、提供できる場所、イベント、いろいろとそろっている国もありますね。でもこれは文化が根付いているというよりも、当の芸術の発祥の地なわけですので、包括的に、単なる自国文化の変遷の一瞬にしかすぎません。だからその耳目で良作駄作ふるい落としていくのが自然の成り行き。
でも日本、クラシック音楽は輸入品だから日本人の接する態度は許容的になっちまう、というのもちょっと違う。日本人が受け入れて消化し同じように曲を作るようになってからの作品に対してはそれなりに批評的観点での物言いもできる。言っておきますが、ブーイングというのは、また脳なし上司の指示通り箇条書きすると、
【ブーイングの対象】
1. 作品に対するもの
2. 演奏に対するもの
3. プロダクションに対するもの(オペラ)
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実験工房的ブーイングは1と3です。2の演奏がいくらうまくても駄目なものは駄目なんです。日本では、このての意思表示が出来ないけれど、これは上記のような文化、歴史が背景にある。
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かたや日本、悪いなりにどこかいいところがあるはずだ、学べるはずだ、となっちまう。学べるというのは誤解してはいけませんが、反面教師的な学びではありません。飽くまでも対象の中身において、ということです。また、日本では1と3に接する機会がないではないか、という一面もあります。
結局、日本ではブーイングしてもしなくてもそれを起点とした波がどこにも立たない。自分の内面にさえ立たない。のではないか。批評は出来るが批判は出来ない。批判のDNAがない。換言、悪いものもけなさないDNAがある。その自己表現。
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とりとめのない文章になっちまいました。
あと、
音楽の特殊性で言うと、音になってみないと分からないから、音になったときに初めて意思表示(ブーイング)をする。美術館で絵を見てブーイングしませんね。
また、拍手をしない。立ちあがって帰る。中座してそのまま帰る。などの意思表示もあります。ブーイングみたいに音になりませんが、ステージからはよく見えます。指揮者だけは振り向かなければその姿、行動が見えないという違いはありますけど。
いろんな意思表示の方法があるのでより多面的な視点が必要だと思います。
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それから、
ブーイングをして目立つのが恥ずかしい、見られるのが恥ずかしい、勇気がない、といった理由であまりしないのではないか。というのもあるかと思いますが、それは表層面においてはブラボー・コールにおいても同じですので、このことに関しては、演奏会どうのこうのとは別に、音楽に限らずもっと一般的な見地で考える必要がありますね。
ブラボーは声高に発声できるが、ブーイングは声高には出来ないのは何故か、多勢に無勢?
結局堂々巡りかな。
おわり

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