ヘナハンはいつもどおりの冷静な論評である。文章は限りなくわかりづらい。
THE NEW YORK TIMES 1986年10月22日(水)
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Opera:Marton Sings‘Tosca’ With Domingo
By DONAL HENAHAN
どのような状況においても、’トスカ’は最も暴力的なオペラの一つである。しかし、メトロポリタン・オペラ今シーズン最初のトスカの公演がおこなわれた月曜日夜は特に過激なものであった。ハンガリーのソプラノ、エヴァ・マルトンが第2幕”歌に生き、恋に生き”を歌う直前のところで、彼女にとって強姦犯である極悪スカルピアから逃げようともみ合ううち、あごにひじを受けてしまった。休憩時間に、マルトンのあごがはずれていると舞台裏で声があがった。アクシデントは第2幕でマルトンが、このヴェリズモ・オペラで不誠実なローマの警視総監の役を演じているがっしりしたバリトンのファン・ポンスともみ合いになったときにおきた。手抜きなしの力で床に投げつけられたあと、マルトンはそこに横たわりおなかをつけたまま、トスカの有名な信念と絶望のアリア ’歌に生き、恋に生き’ をむせび泣くように歌い始めた。実際のところ、このアリアのための伏せた形と言うのは、このオペラの歴史の初期段階でマリア・エリッチアがそのようにして以来、多くのトスカによって採用されてきた。おそらく、マルトンはエリッチアのように歌うつもりであった。いやたぶん違う。ポンスのひじが論点を未解決にした。歌のナンバーの途中、トスカが重要な局面で見捨てないよう神に祈るためにひざをあげた。アリアが終わり、自分の足を元の位置に戻そうとした。うっかりして見落としてしまい「オペラティック・カラテ」をしてしまったことを悔やんだのは疑う余地は無いが、そこでポンスは彼女にたくましい腕を差し出した。
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終幕の前、舞台からのアナウンスが不安感を和らげた。いや、それは正しくない。あとで怪我であったことが判明したが、それでも彼女の独特なエキサイティングな衣装の計画を止めることは出来なかった。サン・アンジェロの城壁からの投身自殺の場面、いつもやられているような単に手すりを越えていくことをしなかった。壁の一番高いところに登り、明らかに楽しそうに身を投げた。これがこのオペラハウスが初めてのマルトンのトスカであった。この役が彼女にとって理想的であることを証明し、さらに純粋な歌唱力と燃えるような気質と言う点で最も顕著であると証明した。彼女の演技は信頼できるし、いつみても素晴らしい。知ってのとおりプッチーニのヒロインはローマの偉大な女優であり、マルトンのこの華々しい方法は誰も疑いを持たなかった。
心理的に複雑な研究があったわけではないが、このアクションは人の心をつかむ劇場においては役にたった。”トスカたち”の生涯において、例えば、私たちはまっすぐ突進して残忍に突き刺されるスカルピアを決してみることはないと思う。なぜなら、この暴力を受けたトスカは自分の犠牲者となるポンスに、トスカ自身がその舞台に夢中になることが出来るということを知らせたかったからに違いないからだ。確かに、彼女の印象的な’歌に生き、恋に生き’には、負傷している、というヒントになるものはなかった。(おそらく、メットは今後のトスカに、あごがはずれるという契約条項を明記することを考えなければならない。) 葬式の最後の場面を終わって何か制約があったようにも見えなかった。おそらく、トスカの”彼の前で、全てのローマが震える”は、大雑把で浅はかというのではなくむしろ単調に唱えられた。しかし、それはマルトンの演技と調和しないというものではなかった。
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トスカはしばしば、ふさわしい力量に欠けるソプラノにより試みられることがある。しかし、この夜はそのような問題はなかった。先シーズンのオープニング・ナイトのこの壮大なフランコ・ゼッフレルリのプロダクションの公演は劇的な失敗であった。しかし、多数のキャストの変更が、’トスカ’が生きるか死ぬかといったある種粗野で荒れるようなエネルギーをもたらしてくれたことに感謝する。プラシード・ドミンゴの良く知られた声の大きなカヴァラドッシはしっかりと人をひきつけるものというわけではないが、いまだ聴衆を刺激する。もし彼が最近の”星は光ぬ”で歌にツヤがなく、詩的なものが欠けているというのなら、アリアを昔のように普通でないドラマティックな悲嘆なものに変えることにより、今回は部分的に補った。終幕でゼッフレルリの空中に浮く地下牢に閉じ込められている一方で、以前のように星空を省略した。この幕は風景がまるでエレベーターのように上がったり下がったりするので、聴衆は楽しみを継続できる。しかしながら、プッチーニのオペラで最も感情を喚起させる間奏曲において、自分のために拍手を欲しがる人間というのはどのような種類の監督なのか?(河童注:舞台が上下するとき、誰も歌を歌っていないのに、その装置のすごさに聴衆から自然に拍手が湧くことを皮肉って言っていると思われる。)
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メットで初めてスカルピアの役を演じたポンスは、もの柔らかに、力強く歌った。そしてマルトンのトスカに勇敢に立ち向かった。警視総監にふさわしく見える堂々とした紳士で、役にふさわしく決して残忍さや脂ぎった邪悪さを表に出さない。第一幕フィナーレでは他のスカルピア役よりも、オーケストラに負けず頑張っていた。しかしながら、ここは優秀な当公演の指揮者ガルシア・ナヴァーロがスコアをもう少し巧みなペース配分でやることが出来たはずだ。教会の移動のクライマックスで(スカルピアの後ろの行列のなかで、回転するセンサーがテンポを示している。)、ナヴァーロはゆっくり着実に移動させることをせず、あまりに早く盛り上げた。その結果、歌手たちは引き揚げること以外何もすることがなかった。Michael Smarttは他のアンジェロッティ役よりも朗々と歌った。イタロ・ターヨは再び軽妙なサクリスタンであった。アンドレア・ヴェリスは抑制のきいた、しかしはっきりとした卑劣なスポレッタ役をこなした。Matthew Dobkinは羊飼いの歌を甘く流した。舞台進行中エキストラを前屈みになったりまっすぐにさせたりするゼッフレルリの主張によってその効果は弱められてはいたが。事実いたるところで、このプロダクションは歌のない配役がドラマから気を散らさせる。第一幕の典礼の群集の場面は単に無駄使いだ。このプッチーニのスコアは、十分にぎやかで野卑なものが潜在しているので、監督は自分自身の主張に入れ込む必要はない。