河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1344- 記憶連続

2012-02-05 23:30:00 | 日記・エッセイ・コラム

河童さんは「さすらいのにせサラリーマン」、さすらいではあるのですが、とりあえずサラリーマンでして、会社にはいってから12回ぐらい引越しさせられました。あまり引越し回数が多いので、もういいだろうということで、飛行機通勤をやったこともあります(笑)。もういいだろうというのは引越しがもういいだろうということだけで、あちこち行かされるのは変わらなかったわけですよ(笑)。飛行機通勤は3年やらされました。火曜日朝方出て木曜日夜戻る、月金は東京で。この間354回フライトしました。
このフライト回数で印象にあるのは、飛行機が飛ばなかったのは一回だけだったということ。それも天候とか事故とかではなくて、ANAのスト。
あともう一つ、平日なか日の水曜日に渋谷のオーチャードでドホナーニ&クリーヴランド管によるマーラーの9番がありまして、それをどうしても聴かなければならず、というより終わってからチェロのダイアン・マザーさんと焼き鳥屋に行かなければならず、そのためにちょっと戻った、だから週に二往復した、とか。
マザーさんとかマジェスケさんとかご本人たちは知らないことですが、私はもっとずっとずっと前の1974年のあの来日、セルが1970年万博の後に亡くなり、襲ったマゼール、当時全身から湯気が出て後光が沸騰しているかのような天才絶好調男その名もロリーン・マーゼルではなくロリン・マゼールがクリーヴランドを連れて初見参した時、随行した当地の新聞記者たちからすすめられ、誰のかもわからない杖(スティックですね)を持たされて団員とポーズをとらされて新聞記者たちが撮る写真に収まったことを昨日の出来事のように思い出す、それ以来メンバーの事はよく知っていたのですよ。
付け加えるとこのときのプログラムの事は脳裏の裏の縫い目のあたりにしっかり今でも焼き付いてます。ベートーヴェンの4番、ベルリオーズの幻想、そしてアンコール、本当に弧になった虹をみた運命の力序曲!第2主題ですね。空気が呼吸してました!あの静寂から現れたヴァイオリンの超美弱音!当時のクリーヴランドはまるで水滴の中でヴァイオリンを弾いているかのようなあまりにみずみずしく、音符もしずくとなって滴り落ちる。ベト4なんて空中に浮いて美しい水滴がスローモーションしてましたね。幻想はまるでガラス張りのステンドグラスのなかで動く悪魔。日本の当時のオケとは比べるものもおこがましい実力差(10倍ぐらい)、来日トップクラスのオケの実力のものすごさをかみしめるといったおもむき。

何の話をしようとしていたのかわからなくなりました。こんなことそんなことどうでもいいって言うわけでもなくて、例によって記憶が全部まるで、弾き振りのミトプー(ミトロプーロスですよね)並みなんですよ。音符ではありませんが、昔引越しでいったいろいろな土地や彼の地での悪行の数々がまるでレントゲン写真のように一瞬に全部浮かんでくるようなそんな状態で記憶の底に沈んでるんですよ。
昔のことを静かに思い出したくなる状態がそのうちやってくると思いますけれど、そのときになったら一度、昔渡り歩いた土地を訪れてみたい、「年寄りの思い出さぐり」みたいな。
でもなんだか、一旦そこを訪れてしまうと、それまで膨らませたイメージが全部消えてしまうような気がするんです。だから、今はまだ、膨らんだイメージを書き留めて置くことに割と力をいれることにしてるんですよ。昔を見ると忘れてしまう、見ないでいれば思い出せる、変と言えば変ですけれど、これ実感なんですね。

それで、これは会社にはいるずっと前なんですが、旅的な、どこかへ行った、という記憶で一番古いのが、おじいちゃんに連れられて行った「あぐりこ」というところです。駅があって、小川があって、石の橋を渡るとお寺があって、今でも鮮明に覚えてます。いくつだったのかな。たぶん、3~5才ぐらい。石の橋にすわっておふくろが作ってくれたおにぎりを食べました。自分が全部食べてしまいおじいちゃんは食べ損ねたということをあとで聞きましたけど。
おばあちゃんは僕が生まれて一年ぐらいで亡くなったそうで記憶には一つしかありません。抱きかかえられて居間を通過した記憶があります。居間の形も記憶にあります。黒い大黒柱があったころですね。
でも、自分の全部の記憶で一番古いのは、たぶん、羊水のなかでした。溺れているのに苦しくない。妙な気持でしたね。ジャバジャバという音まで聞こえていたような気がします。
いずれにしても、なんとしあわせな時代だったことか!!

転勤の着任地で、最初っからカメラもって思い出づくりを始める人がおります。自分の場合は全く逆です。その地で遊びも仕事も全部しちまぇといった感じ。あとで考えるといろんなことをしていたなぁ、というぐらいです。写真もあまりありません。思い出作りなんて考えたこともなかった。
今はなにかにつけデジカメの世界であんなにムーヴィーとか写真をとって、一番大事なことをしていない。つまり自分の記憶の中にその瞬間を、必然性をもった一貫した流れとしてとらえることが出来ていない。自然の時の流れを断絶するデジカメ世界の何がいいのか。
プロは別ですよ。プロというのは逆にその自然の流れの中にある必然をとらえる、リアルな目を持ってつかむ、そのことができる人たちがプロでしょう。
自分的には写真は少なくていい。ある時の点と点が写真で少し残っていればいい。あとは記憶が呻いていく。記憶が生きて呻く。もっと言うと、その点と点になる写真もいらない。
点と点、その隙間、両方、「年寄りの思い出さぐり」を始めるにはまだ少し早いような気がします。自分のブログもそうですが後ろ向きといいますか、後ろを見ながら前に進む、みたいなところは少しありますね。

デジャビュの経験ありますか。なんか、ものすごい人だかりと混乱のストリート。雑踏の声、クラクション、絶え間ない通奏低音。でも自分に聞こえてくるのは、シーン、ツーンとした妙な静けさの音、そのなかで、あれ、この場の雰囲気なんか記憶にある、自分は初体験なのに懐かしい。
既視されている方が夢で、既視している方が現実?それとも、既視されている方が現実で、既視している方が夢?はたまた両方とも夢?両方とも現実?
既視している自分は絶対的に現実なんでしょうか。これって昔むかし見たことがある、って思っている自分が実は夢の中っていうことはありませんか。自分はそんな風に思うことがあるんですよ。今夢の中で既視感を味わっている、それを見ている現実の自分がいる。インセプションって本当にあるのかもね。
睡眠中に見る夢は先々のことに関するものであってもなくても、全て過去の出来事のイメージ化だとどこかで読んだことがあります。だいたい、こんな夢、なんで見たんだろう、なにかの前ぶれなのかなと思ったりしますが、じっくりよく思い起こしてみると、ああ昨日こうゆうことがあったんでこんな夢を見たんだ、と感じる時が結構ある。少なくとも自分の場合、その夢が出てきた原因は過去の出来事にあると思い当たるのがほとんど。
それで、その見た夢の内容がデジャビュのことだったりして。
デジャビュって現在は現実であるという絶対公理みたいなものの上に成り立っているのかな。現在が夢見状態かもしれないということじゃいけないのかな。
この感覚ってデジャビュなのかなって思っている自分が実は夢の中の人だったりして。
間髪無し状態、夢の中でデジャビュっている状態が絶え間なく続いているような気がするんですよ。だから昔のことをよく覚えているねぇ、といわれても単に、「今、ずーっと連続した夢の中でデジャビュしている。夢の中で絶え間ないデジャビュをしている」ので記憶が点と点で蘇るというよりも線になっている。それを文章とか声に出しているだけ。なので、もしかして、周りから見て過去をクリアに思い出しているときの自分は夢をさまよっている状態なのかもしれない。そんな状態のことを、記憶がいいね、と言われているだけかもしれないんです。連続は線だ。点でなく線になって蘇えるのは連続しているデジャビュ夢のせい。だから夢の中でデジャビュ夢を見続ければ断片やジグソーパズルではなく、シームレスで記憶が順序正しくシーケンスに次々と湧き出てくる。
じゃあ、私の話し相手は、夢の中の私と会話しているのかな。よく、寝言いっている人にうなずいて返事とか相槌をうってはいけないと言われますよね。おそらく夢の中の自分と会話している人はやはり夢見中の人のような気がする。ゆめゆめ同士で記憶の探り合いをしている。
だめだ、夢が妄想を呼び起こす。

(後半省略(笑))
●●●●
おわり

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