『三枝博音著作集』5(中央公論社 1972年10月)収録、同書139-225頁。
三枝博音氏の『梅園哲学入門』(1943年6月出版)によれば、三浦梅園の独創性と後世への意義は、一つに、それまでの日本に希薄だった「物質」という概念を“錬成”し、「物」の計量の対象たることを可能にしたこと、二つに、人間と切り離された「自然」概念を“発見”したことであるという。
梅園の著作何度読んでもよく解らないので(原文はさらなり)、元に戻って双六やり直し。
三枝博音氏の『梅園哲学入門』(1943年6月出版)によれば、三浦梅園の独創性と後世への意義は、一つに、それまでの日本に希薄だった「物質」という概念を“錬成”し、「物」の計量の対象たることを可能にしたこと、二つに、人間と切り離された「自然」概念を“発見”したことであるという。
梅園の著作何度読んでもよく解らないので(原文はさらなり)、元に戻って双六やり直し。
『尚書』「泰誓上」の「惟天地萬物父母,惟人萬物之靈」の“霊”は、『尚書正義』の注によれば「精髄」という意味らしい。この世に存在するすべての物(生物を含めて)がはぐくみ育てる存在だからという理屈である。例によって論に証拠はないが。これも備忘に。
というのは『徒然草』第211段で兼好法師はこの句を踏まえて、「人は天地の霊なり」と書いているのだが、どういう意味で使っているのだろうと気になったからだ。御坊はどの注で『尚書』を読まれたのだろうと。
ここでのあらまほしき先達は小川剛生氏なのだが(同氏訳注『徒然草』角川ソファイア文庫、くだんの文は196頁)、同書「解説」を読むと、この『徒然草』は何のために書かれたのか、また誰に宛てて書かれたのか(読者層は奈辺か)もはっきりしないという。おのれの無知と鈍感さに驚く。
というのは『徒然草』第211段で兼好法師はこの句を踏まえて、「人は天地の霊なり」と書いているのだが、どういう意味で使っているのだろうと気になったからだ。御坊はどの注で『尚書』を読まれたのだろうと。
ここでのあらまほしき先達は小川剛生氏なのだが(同氏訳注『徒然草』角川ソファイア文庫、くだんの文は196頁)、同書「解説」を読むと、この『徒然草』は何のために書かれたのか、また誰に宛てて書かれたのか(読者層は奈辺か)もはっきりしないという。おのれの無知と鈍感さに驚く。
再読。
先日、著者のTWを見て、「どうして琉球の女性は帯を締めないのだろう、この本に書いてあるのかな」と記したが、再読して、平民から王族まで女性は帯を締めない事実が確認できたほかは、理由は書かれていなかった。やはり「そういうものだったから」と云うしかないのかしら。
なおアマゾンで見たら出版されてから1年あまり経つが値段が高止まりしている。当然かなとは思う。
(河出書房新社 2016年8月)
先日、著者のTWを見て、「どうして琉球の女性は帯を締めないのだろう、この本に書いてあるのかな」と記したが、再読して、平民から王族まで女性は帯を締めない事実が確認できたほかは、理由は書かれていなかった。やはり「そういうものだったから」と云うしかないのかしら。
なおアマゾンで見たら出版されてから1年あまり経つが値段が高止まりしている。当然かなとは思う。
(河出書房新社 2016年8月)
先行研究史整理に、兼良兼良(1402-1481)は復古主義者であるという見方と合理主義者であるという見方、さらに15世紀前半は復古・保守主義者で後半は近代的な実証主義・合理主義者だという見方があるとある。こちらの理解に問題があるのかもしれぬが、構図がすこしく図式的すぎないかと思える。あるいは著者による整理が枝葉の論点を切り捨てて要点だけを提示しているからであろうか。一条兼良が15世紀前半は復古的な保守主義者で後半死ぬまでは近代的な実証主義的な合理主義者だったとする見方は、これは戯れに前に書いたことがあるが、イランの詩人サアディーを、生まれたときからホラズム朝が滅びるまではテュルク人で、その後は死ぬまでモンゴル人であるというようなものかとさえ。
(勉誠出版 2013年2月)
(勉誠出版 2013年2月)
「訓読は翻訳である」(第三章 他者受容と内部の形成――漢文訓読のイデオロギー」)。まことにそのとおりである、これも著者が指摘するようにそれが原文の音読(と併用されていたあいだは。音読すなわち直解である。
(岩波書店 2003年5月)
(岩波書店 2003年5月)