書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

高坂直之 『トマス・アクィナスの自然法研究』

2015年04月30日 | 抜き書き
 「第四章『公共の福祉』に関するトマス派法理の展開」「第一節 トマスの『共通善』と憲法における『公共の福祉』との関係」から。

 一般に『公共の福祉』は国内秩序を意味し、ほとんど道徳と関連のない便宜、政策の面までも包含する実定法上の概念にほかならない。ところが『共通善』〔金谷注・bonum commune〕は、むしろ国家を超越した人類の『秩序の静けさ』(tranquillitas ordinis)を目指し、正義、道徳をその内容とする自然法および実定法に通ずる概念である。 (本書255-256頁)

(創文社1971/11)

アーネスト・ウィークリー著 寺澤芳雄/出淵博訳 『ことばのロマンス 英語の語源』

2015年04月29日 | 抜き書き
 我々の使う(employ)表現(expression)は、最も基本的な(rudimentary)対象(object)や行為と関係のある(connected)ものを別とすれば、ことごとく隠喩(metaphor)からできている。 (「第八章 隠喩」 本書217頁)

 たとえ、不断の使用の結果、元来の意味がぼやける場合があるにしてもである。 (同上)

(岩波書店 1987年7月)

F. ハイニマン著 廣川洋一/玉井浩/矢井光一訳 『ノモスとピュシス』

2015年04月29日 | 抜き書き
 法律や習慣(ノモス)の上では、平等に持つことが正しく、他人よりも多く取るのは不正だとされているが、そかしその法律と習慣は仮の約束事にすぎないのであり、自然本来(ピュシス)においては 、強者が弱者よりも多く取るのが正しく、また不正を承けるほうが不正を行うよりもいっそう醜悪である。 (「訳者あとがき」 本書266頁)

(みすず書房 1983年4月)

中純夫 「樗村沈における華夷観念と小中華思想」

2015年04月29日 | 地域研究
 川原秀城編『朝鮮朝後期の社会と思想』(勉誠出版 2015年2月)、同書158-180頁。

 李朝知識人の沈(1685-1753)は、その文章において清朝皇帝を「胡皇」と表現した。具体的には康煕・雍正帝に対して用いている。この「胡皇」という語は、文言文の語彙として熟した言葉遣いなのだろうか。

B. スネル著  新井靖一訳 『精神の発見 ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研究』

2015年04月29日 | 西洋史
 「第12章 ギリシア語における自然科学的概念の形成」。その一因(それも大いなる)として、著者は、ギリシア語においては早くから定冠詞が発達していた事実を挙げる。定冠詞のおかげで「~というもの」「~であること」という、事物の総称化・抽象概念化が可能になったことに由ると。ラテン語はその方面の発達が遅れ、キケロはギリシア語の総称・抽象名詞をラテン語に翻訳するのに苦労していると指摘している。
 であるならばなぜギリシア語に定冠詞は出現したのであろうか。

(創文社 1975年2月)

金日宇/文素然著 『韓国・済州島と遊牧騎馬文化 モンゴルを抱く済州』

2015年04月23日 | 地域研究
 井上治監訳/石田徹・木下順子訳。

 出版社による紹介

 缸波頭城に籠城した三別抄軍は現地の説明文が言うごとく玉砕全滅したのではなく、戦闘中の戦死者を除けば、主立った地位の者6名が処刑され、高麗の重臣35人が捕虜となったのち斬首されたほかは、降服した兵士130名は全員開放されて帰還を許された由(本書28頁)。ただ陥落前に城を脱出して漢拏山に籠もった金通精とその配下70余名は全員死亡したと(同頁)。私が城址で見た解説にはこの金の部隊にのみ戦後の言及があった。
 また、

 朝鮮初期までは、元を起源とする姓氏や明が流刑にした元の王族とその子孫たちの姓氏を持つ住民たちがかなり済んでいましたが、いつの日からか、彼らの系譜を追跡できなくなります。 (101頁)

 とある。なぜそうなったのであろうか。

 モンゴルとの出会いが残した痕跡を消し去ろうとする傾向は、その子孫たちに対する中央政府の弾圧とともに、漢族を中国支配の正統である華と見なし他の種族は夷狄と見る華夷論が拡散していた時代的情況とも相まっています。 (102頁)

(明石書店 2015年1月)

河原田盛美 『沖縄物産志 附・清国輸出日本水産図説』

2015年04月23日 | 地域研究
 出版社による紹介

 明治初めにおける沖縄の物産(とくに水産物)および人文史料。『物産志』は明治十七年成立。齊藤郁子「河原田盛美の琉球研究」(『沖縄文化研究』35、2009/3。143-170頁)によれば、著者が明治八年から年にかけての在琉中に内務省出張所所長心得として行った建議は大久保政権の沖縄政策に一定の影響を与えたらしい。

(平凡社 2015年3月)

川原秀城 「宋時烈の朱子学」

2015年04月21日 | 東洋史
 川原秀城編『朝鮮朝後期の社会と思想』(勉誠出版 2015年2月)、同書99-139頁。

 宋時烈の研究レベルが高いのは、帰納と演繹の質と量を確保する――厖大な資料を解析して一般法則を発見し、法則間の論理的整合性を考察し、一般法則から結論を推論し、結論の客観性を獲得するためである。(122頁)

 これだけなら大層驚くべきことだが、同時にこうも書かれているのはどう解釈すべきか。

 宋時烈は二程朱子の学に心酔しそれを絶対化し、孜々として有用な朱子学基本書を編み、程朱書に精密な注釈をくわえる。〔略〕朱子学の厳格かつ排他的なフレームワークからわずかでも飛びだそうとはしない(121頁)

鈴木開 「『満文原檔』にみえる朝鮮国王の呼称」

2015年04月21日 | 東洋史
 川原秀城編『朝鮮朝後期の社会と思想』(勉誠出版 2015年2月)、同書83-98頁。

 出版社による紹介
 太祖ヌルハチの天命年間から太宗ホンタイジの天聡年間の末年まで、後金ハンは、朝鮮国王をみずからと同様にhanハンと呼んでいた由。ところが天聡年間の末年からwangワン(王)と呼ぶ例が増えはじめ、ホンタイジが皇帝に即位し国号を大清国と改めた次の崇徳年間には自らがハンにして寛温仁聖皇帝となる一方で、朝鮮国王にたいする呼称はワンで統一されるという。