John K. Fairbank 編。
副題「Late Ch'ing, 1800-1911, Part 1」。
South of the T'ien Shan Lay Eastern Turkestan, or Little Bukharia. This was composed of a north-eastern zone, which had formerly been known as Uighuristan, and a much larger south-western zone, the Tarim basin, called Altishahr or Kashgaria, although both terms - Altishahr and Kashgaria - have sometimes been used to designate the whole of Eastern Turkestan. In these two areas, Uighuristan and Altishahr the inhabitants were almost exclusively Turki-speaking. (Joseph Fletcher, 'Ch'ing Inner Asia c. 1800', p. 69)
(日本語訳)
天山の南には東トルキスタン、あるいは小ブハーリアが広がっていた。この地は、かつてウイグリスタンとして知られた北東部と、それよりもさらに大きい南西部、アルティシャフルまたはカシュガリアと呼ばれるタリム盆地から成るが、アルティシャフルまたはカシュガリアというこれら二つの呼称は、東トルキスタン全体を指す語として用いられることもしばしばあった。これら二つの地域〔かつてのウイグリスタンとアルティシャフル(カシュガリア)〕においては、住民はそのほとんどがテュルク語話者であった。
言葉を足してもうすこし敷衍して言えば、こういうことである。
・東トルキスタンは天山以南を指し、それ以北(ジュンガリア)は歴史的には含まない。
・天山以南の東トルキスタンは二部分に別れ、比較的小規模な東北部分は過去(16世紀まで)ウイグリスタンと呼ばれたこともある地域(トゥルファン盆地一帯)と、それよりも大きな残りの西南部(タリム盆地・アルティシャフルまたはカシュガリア)とに別れる。
・アルティシャフルまたはカシュガリアの呼称で東トルキスタン全体を意味することもある。
・東トルキスタンに住んでいるのは圧倒的にテュルク系諸民族であるが、すべてではない。
原文、時制が基本的に過去なのは、乾隆帝による征服(18世紀半ば)直後にかかる記述のため。
(Cambridge University Press, Cambridge, 1978)