書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

梅棹忠夫 『わたしの生きがい論 人生に目的があるか』

2010年01月28日 | 抜き書き
 〔・・・〕学問というものは、いったい何のためにあるのかということです。何の役にもたたない学問というものは、何のためにあるのか。〔・・・〕学問というものにもし何のためにという目的というものがあるとすれば、これは人間の栄光のためにあるんだという、そういうことだとわたしはかんがえております。学問というものは人間存在の栄光のあかしである。実用的目的のためには何の役にもたたないけれども、しかし人間というものの尊厳のためにあるんだという、そういうことです。 (「武と文 Ⅰ 無為徒食の徒」 本書291-292頁)

(講談社文庫版 1985年1月 もと講談社 1981年)

宇山智彦編著 『中央アジアを知るための60章』 から

2010年01月28日 | 抜き書き
 そこ〔「ウズベク民族の国家の歴史」=1999年にウズベキスタン共和国科学アカデミー歴史研究所によってまとめられた同国の国史編纂に関するコンセプト〕における基本的な考え方とは、「ウズベク民族」を現在のウズベキスタンの領域で歴史的に人工的灌漑農業生産を行ってきた定住民ととらえ、定住民の国家の歴史現代にまでつなげようとするものである。 (帯谷知可「第18章 「『歴史』の見直しから『国史』の創成へ」 本書97頁)

   このような歴史の描き方は、実はソ連時代に確立された共和国史の基本理念を継承したものだという。〔略〕ソ連時代、ある民族の起源は、その名称の由来に関わりなく、その地域にそれ以前に暮らした人々に遡るべきだという民族起源論に基づいて、中央アジアの各民族はそれぞれの領域において古代からの様々な集団の相互作用によって形成されたという理論が根付いた。中央アジア全体のイラン系住民という枠で歴史を書いたタジキスタンは例外だが、各共和国は各民族の歴史を共和国の領域という枠で成型することで、「固有の」共和国史をもったのだった。したがって、ウズベク共和国のルーツは、ウズベクという民族名称の由来にかかわらず、現在のウズベキスタンの領域で考古学的に証明されうるもっとも古い定住民の遺構に求められていくし、歴史上ウズベキスタンの領域で定住民を中心に起こったことはすべてウズベク民族の歴史となるのである。 (帯谷知可「第18章 「『歴史』の見直しから『国史』の創成へ」 本書97-98頁)

 ティムールが〔ウズベク民族の〕英雄たりうるのは、ティムール自身がウズベクだという自意識を持っていたか否かによるのではなく、ティムールが現在のウズベキスタンの領域に生まれ育ち、現在ウズベキスタン第二の都市であるサマルカンドを首都として中央アジアから西アジアにいたる、世界史に名を残す大帝国を築いたからである。 (帯谷知可「第18章 「『歴史』の見直しから『国史』の創成へ」 本書98-99頁)

(明石書店 2003年3月)

『鬼が来た!』(2000年)

2010年01月27日 | 映画
 日本人として観るのが辛い映画だった。それは、この映画で描かれるような史実が本当にあったかどうかという以前の、出てくる日本人たちの言動がどれもこれもあまりにもリアル――あのような極限の状況下ではおそらくあんなふうになるにちがいないという意味で――だったからである。主演の香川照之さんの撮影日記(抄)『中国魅録』(キネマ旬報社 2002年4月)によれば、監督としての姜文は、撮影中もそれ以外の時間も、日本人俳優連をわざと心身の限界状態へと追い込んでいこうとしていたという。道理で演技が鬼気迫るわけだ。画が白黒であるからばかりではない。

「Uzbek photos anger officials」 から

2010年01月27日 | 抜き書き
▲「Al Jazeera English」Tuesday, January 26, 2010 21:15 Mecca time, 18:15 GMT, Al Jazeera and agencies. (部分)
 〈http://english.aljazeera.net/news/asia/2010/01/20101261519466990.html

  A photographer in Uzbekistan has said she has been charged with slandering the dignity of the Central Asian state through her photographs and a documentary film portraying of life in the isolated state.

  A state-sponsored "panel of experts" found that Akhmedova's work left a negative impression on viewers who were unfamiliar with Uzbek traditions, showing the Uzbek people as uncultured and backward.

 しょうもないことをする。いい加減目を覚ませ。

張雲生著 竹内実監修 徳岡仁訳 『全訳 林彪秘書回想録』

2010年01月27日 | 政治
 これも記述の信憑性を確認する手だてがない。回想録とは、そのままでは受け取れない、元来がそういうものではあるのだが。これもやはり著者は正人君子である。しかし基本的に当時の毎日の生活と仕事の圏内で自分が見聞しえたことに冠してのみ、記述と判断を限っているところ、ほとんど著者が神にちかい『毛沢東の私生活』・李志綏のスタイルとは大きく異なる。林彪についても、図式的で単純な(極)悪人にはしていない。むしろ善悪定からぬ、私利私欲ももとよりあったが、内心深刻な批判を抱きながら――張雲生が林彪の死後見たという林彪と妻の葉群の書いたメモ類のなかに、1958年の大躍進について当時すでに「妄想によるデタラメ」と非難しているものがあったという――、外は生き延びるために毛沢東に必死に随いて行こうと策し振る舞う、きわめて複雑な人格として描かれている(奇妙なことに妻の葉群はべつとして林彪自身は権力欲も含めて欲望が概して稀薄な印象を受ける)。その人間像は、ある意味、魅力さえ感じさせるほどである。

(蒼蒼社 1989年5月)

「か」が付いているから提灯記事

2010年01月27日 | 抜き書き
▲「Chosun Online 朝鮮日報日本語版」2010/01/27 09:42:40、チョン・ビョンソン記者「中国の科学研究、米国超えは目前か」 (部分)
 〈http://www.chosunonline.com/news/20100127000022

 世界的な金融情報会社、トムソン・ロイターによると、1981年からの約30年間で世界の科学ジャーナル1500誌に掲載されたBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の論文件数を比較した結果、中国の論文が圧倒的に多かった。

 質は?

 中国では改革開放により科学研究ブームが訪れ、1981年以降は論文件数が64倍に増えた。特に化学、素材科学分野で頭角を現した。2008年に中国が発表した科学研究論文は11万2318件で、米国(33万2916件)の3分の1だったが、過去20年の中国の論文件数増加率は米国の4倍以上に達した。トムソン・ロイターの評価研究担当者、ジョナサン・アダムズ氏は「中国の科学投資は驚異的だ。中国の科学研究が驚くべき成長を見せ、現在米国に次ぐ2位につけているが、このままの勢いならば、2020年には1位に立つだろう」と予測した。

 だから質は?

 しかし、中国の科学研究に対する質的評価はまだ否定的な見方も少なくない。これを補うため、中国は海外の専門家との共同作業を行うことが多い。中国の科学論文の9%は少なくとも1人以上の米国の研究者が加わったものだ。しかし、英ロンドン王立協会のジェームズ・ウィルスドン科学政策局長は「論文の質もここ5年で目立って向上した」と指摘した。

 最後のほうで、ちゃんと逃げ道を拵えてある。

片倉もとこ/梅村坦/清水芳見編 『イスラーム世界』

2010年01月26日 | 人文科学
 なんだ梅村先生、編者として名前を連ねるだけで、書いておられないのか。
 それにしても、しょっぱなから明治以来脱亜入欧の日本人はイスラームに無知と偏見をいだいている、そんなことではアジアの一員に戻してもらえないぞ云々という型どおりのお説教には、萎える。
 その一方で、中国のイスラーム(東トルキスタンのウイグル族をはじめとするテュルク系ムスリムや中国各地に居住する回族)について、まったく項目も立てられていなければ言及もされないが、いったいどういうわけだろう。アジアの一員に戻してもらうためには中国のことはとやかく言ってはいかんとでも身を以て教えを垂れているのかしらん。せめて触れないことについてなにがしかの断り書きくらいいれたらどうか。学者としての良心も人としての良心もふたつながらないのかね。

(岩波書店 2004年2月)

『The Cambridge History of China』 Vol. 10 から

2010年01月26日 | 抜き書き
 John K. Fairbank 編。 
 副題「Late Ch'ing, 1800-1911, Part 1」。

  South of the T'ien Shan Lay Eastern Turkestan, or Little Bukharia. This was composed of a north-eastern zone, which had formerly been known as Uighuristan, and a much larger south-western zone, the Tarim basin, called Altishahr or Kashgaria, although both terms - Altishahr and Kashgaria - have sometimes been used to designate the whole of Eastern Turkestan. In these two areas, Uighuristan and Altishahr the inhabitants were almost exclusively Turki-speaking.  (Joseph Fletcher, 'Ch'ing Inner Asia c. 1800', p. 69)

 (日本語訳)
 天山の南には東トルキスタン、あるいは小ブハーリアが広がっていた。この地は、かつてウイグリスタンとして知られた北東部と、それよりもさらに大きい南西部、アルティシャフルまたはカシュガリアと呼ばれるタリム盆地から成るが、アルティシャフルまたはカシュガリアというこれら二つの呼称は、東トルキスタン全体を指す語として用いられることもしばしばあった。これら二つの地域〔かつてのウイグリスタンとアルティシャフル(カシュガリア)〕においては、住民はそのほとんどがテュルク語話者であった。

 言葉を足してもうすこし敷衍して言えば、こういうことである。

・東トルキスタンは天山以南を指し、それ以北(ジュンガリア)は歴史的には含まない。
・天山以南の東トルキスタンは二部分に別れ、比較的小規模な東北部分は過去(16世紀まで)ウイグリスタンと呼ばれたこともある地域(トゥルファン盆地一帯)と、それよりも大きな残りの西南部(タリム盆地・アルティシャフルまたはカシュガリア)とに別れる。
・アルティシャフルまたはカシュガリアの呼称で東トルキスタン全体を意味することもある。
・東トルキスタンに住んでいるのは圧倒的にテュルク系諸民族であるが、すべてではない。

 原文、時制が基本的に過去なのは、乾隆帝による征服(18世紀半ば)直後にかかる記述のため。

(Cambridge University Press, Cambridge, 1978)

「チベット亡命政府 『Press Statement』から」補足

2010年01月26日 | 抜き書き
▲「The Washington Post」Sunday, January 24, 2010、Associated Press「China proposes development plan for Tibetan regions」。
 〈http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/23/AR2010012302398.html

  BEIJING -- China's president said Tibet's development must include Tibetan areas in neighboring provinces -- a move probably aimed at tying the region tighter to the rest of the country after deadly riots two years ago.
  Hu Jintao said at the first high-level meeting on Tibet in nine years that the development would require hard work to foil "penetration and sabotage" by Tibetan separatists, the New China News Agency reported Friday.

 太字は引用者。後半部はともかく、前半は、地域自治ではなく文化自治――おそらくこれがダライ・ラマとチベット亡命政府とが求めているもの――への歩み寄りともとれるが・・・・・・。