公共の利益とは、もし人々が明らかに見、合理的に考え、公正にかつ博愛的に行動するとすれば、選ぶであろう所のものだと、推定してよいのではあるまいか。 (「第一部 西欧の凋落」「第4章 公共の利益」、本書58頁)
公共の哲学----すなわち「支配者と主権を持つ人民の上に・・・・生命ある者の全社会の上に」法が存在するとする自然法の教義〔後略〕 (「第二部 公共の哲学」「第8章 公共の哲学の衰微」、129頁)
政府は公共の哲学に対する主権と所有権を与えられるべきでない〔後略〕 (同上、131頁)
公共の哲学は自然法〔原文傍点〕として知られている。〔中略〕この哲学は西欧社会の諸制度の前提であって、私はそれらの諸制度は、公共の哲学を信奉しない社会ではその機能を発揮し得ないものと信じている。この哲学の諸制度にもとづかない限り、人民の選挙、多数決、代表議会、自由な言論、忠誠心、財産、社団、及び任意的な団体などというものは、よく理解でき機能を発揮し得る観念に到達することは不可能である。 (同上、134頁)
「私は・・・信ずる」というのは弱いが、あとの一文については、旧ソ連やこんにちの新中国の有様を見る限り、著者の予測が現実として的中しているのは確かである。
二千年以上もの間ヨーロッパの思想は、人間の理性的能力が普遍的妥当性を持つ法と秩序の共通概念を、産み出し得るという理念によって影響された、とバーカー〔注〕はいっている。 (同上、138頁)
注。Sir Ernest Barker。"Traditions of civility: eight essays," Cambridge University Press, 1948.の著者。
この〔ギリシア人であるアレクサンダー大王がペルシア人に対して公布した〕共通法は、理性的な人なら誰でも発見できるもので、それは決して主権的権力のわがままで恣意的な命令ではないという意味で、「自然的」である。〔中略〕ローマの法律家たちはさらに、「共通の人間性すなわち理性によって、人間の種々の要求と本能に応じて、人類に課せられた法」である自然法(ius naturale)が理論的に存在することを認めた。 (同上、141-142頁)
自然法は神の命令であるのかどうか、それとも神の存在にもとずいてはいても、神自身によってさえ変更され得ない、永遠の理性の命令であるのかどうか、ということについては、深刻な論争があった。〔中略〕しかしながら、自然主義者と超自然主義者とどこで意見が分かれたかということが、決定的な点なのではない。神の命令であろうと物事の道理であろうと、妥当性を持つ超越的な法が存在するということに、一致していたということが重要なのである。 (「第11章 公民道の擁護」本書236-237頁)
「公民道」は civility の訳。
(時事通信社 1957年3月)