書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Yijie Tang, Zhen Li, George F. McLean, eds., "Man and Nature: The Chinese Tradition and the Future"

2016年07月31日 | 思考の断片
 ここで全巻読めるが、いつもながら何か根本的な違和感を覚える。これは現代史と地域研究を除く英語のシノロジー全般について感じることだ。
 少なくとも私が平素より見知っている、あるいはいま取りあえず原文を確認できるかぎりの紹介史料の英訳が、私の解釈とはそのニュアンスが――ときに論旨においてさえ――、異なっているからだ。それらが英語として正しいのは彼ら英語圏のシノロジストにとって当然である。しかしそのアルファベット表記の名前から判断して、この論集には漢語を母語とするはずの中国系の研究者も参加・寄稿しているのに、この差異を依然感じる。とすれば、問題は、研究者各人のテキスト読解の巧拙深浅の次元にではなく、ある言語を、それとは文化も思考様式もことなる別の言語に完全に翻訳するという、この段階における、その持つ根本的な困難もしくは不可能性というところにあるのではないか。

(Council for Research in Values & Philosphy, July 1989)

動物誌 (アリストテレス) - Wikipedia

2016年07月30日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E8%AA%8C_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9)

 古代ギリシアでは自然界における動物に対する知的関心が寄せられるようになり、アリストテレスは植物および動物についての研究を記録していた。アリストテ レスは本書『動物誌』では数多くの観察結果を記録しており、そこで観察されている動物は520種類である。アリストテレスが本書で述べている内容は先人の研究業績の引用ばかりではない。アリストテレス自身が行った観察や解剖も多数含まれている。例えばタコやイカなどの頭足類について雄が精嚢を雌の体内に挿入する際に使用される交接腕の機能について詳細に調べている。またエビやカニなどの甲殻類に関する解剖学的な調査が述べられており、サメの胎盤構造についても記載されている。原典は図入りの9巻から構成されている。こうして本書では、生物の観察による知見、既存の説、それに対する反論や自身が提起する説などを総合的に解説している。 (「2 内容」)

 分類学の観点から次のような区別を行っている。まず動物は「無血動物」と「有血動物」とに大別され、両者はさらに「ゲノス」という区分で分類される。無血動物は有殻類・昆虫類・甲殻類・軟体類から、有血動物は魚類・卵生四足類・鳥類・哺乳類の四種類から構成される。原典の用語も考慮して説明すると、アリストテレスの分類体系は下に示すものである。(それを、原典におけるギリシア語表現、その音をアルファベットにしたもの、一部は丸括弧内にその意味やニュアンス、最後に《》内に現代の学術語や短く現代日本語で表現した例を並べて示す。)

  ἄναιμα, anaimaアナイマ 《無血動物》
    όστρακόδέρμα, ostrakoderma (殻のあるもの)《有殻類》
    ἔντομα, entoma (節のあるもの)《昆虫類》
    μαλακόστρακα, malakostraka (柔らかい殻のあるもの)《甲殻類》
    μαλάκια, malakia (柔らかなもの)《軟体類》
  ἔναιμα, enaimaエナイマ 《有血動物》
    ἰχθύες, ikthues 《魚類》
    τετράποδα ή ἄποδα ῲοτοκοῦντα, tetrapoda e apoda ootokounta 《爬虫類と両生類》
    ὄρνιθες, ornithes 《鳥類》
    ζῳοτοκοῦντα ὲν αύτοῖς, zootokounta en autois 《哺乳類》
  (「2.1 分類」)

野崎昭弘 『詭弁論理学』

2016年07月30日 | 人文科学
 必要あって埃を払って読んでみる。面白い。

 強弁術の要諦を格言ふうにまとめると、次のようになるであろう。
(1)相手のいうことを聞くな。
(2)自分の主張に確信を持て。
(3)逆らうものは悪魔である(レッテルを利用せよ)。
(4)自分のいいたいことを繰り返せ。
(5)おどし、泣き、またはしゃべりまくること。
 (「強弁術の総括」52頁)

 強弁術をふりまわすことができるかどうかは、頭の良しあしでも技術の問題でもなく、結局は人柄の問題である。 (54頁)

 小児病患者たち (54頁)

 言葉による真理の追求と詭弁術とは、紙一重である。 (「詭弁術の誕生」58頁)

 理屈抜きの『押しの一手』は、『強弁』と呼ぶべきであろう。これに対して、多少とも論理や常識をふまえて『相手を丸め込む(あるいはごまかす)』のが『詭弁』である。 (「議論の種々相」9頁)

 もっとも面白かったのは最後の二つで、この二つを一丸にして、さらに少しく敷衍しつつ言い換えれば、こうなるであろう。強弁と詭弁が別のものであるとして、真理の追及を目指すものがときとして陥るのが詭弁であり、真理に関心のないものがたやすく向かうのは強弁ということである。

(中央公論社 1976年10月)

韓相煕 「19世紀東アジアにおけるヨーロッパ国際法の受容」(一) ―(四)

2016年07月29日 | 地域研究
 『法政研究』74-1~4、2007年7月―2008年3月掲載。

 日本・中国・韓国における研究史の整理((一)から(三))と、著者によるまとめ、今後の課題の提示、附・主要関係著作目録((四))。

 著者による三カ国の研究史の特徴は以下の通りである((一)より。F2-F3頁)。

 ①「日本の場合は『国際法が自然法として日本へ受容されたか』という問題をめぐる議論が長くなされてきた。初期には、『自然法』として受容されたという説が『通説』であったが、その後、『自然法』としてではなく『実定法』として受容されたとの反論が強く唱えられ、現在では、『自然法と実定法双方として』受容されたという折中的な見解(ここではさらに、『自然法』と『実定法』のどちらが優位であったかという問題があるが)が支持されているように思われる。〔後略〕」
 ②「中国の場合は、『中国にヨーロッパ国際法を最初に紹介したのは誰か』という問題と、『丁韙良はなぜ「萬国公法」を翻訳したのか』という問題が早くから提起され、長く論叢の対象になってきた。前者の問題は、1980年代後半から「最初の紹介者は林則徐、体系的な紹介者は丁韙良』という結論が支持されることになって一段落し、その後論争の焦点は後者に移っていく。〔後略〕」
 ③「韓国の場合は、『(国際法の受容に)なぜ日本は成功し、朝鮮は失敗したのか』という問題と、『国際法が最初に伝来したのはいつなのか』という問題が中心に議論されてきた。最初の『通説』では、前者については『朝鮮が示した消極的な態度』がその原因として支持され、後者については江華島条約一年後の『1877年』が支持されていた。それ以後の研究では、江華島条約を基準とし、『それ以前』、『江華島条約』、『それ以後』に時代が区切られ、特に江華島条約以前に国際法が伝来した可能性が示唆されるとろもに、『江華島条約』・『それ以後』に関しては、当時の朝鮮は『積極的な態度』を示していたという(従来の通説とは異なる)分析が増え続けている。」

 
 これを一見してわかることは、「『国際法』がどう訳されたかという」点については議論になっていないらしいことである。少なくとも言及はない。
 これは具体的にいえば「丁韙良(William Alexander Parsons Martin)は『萬国公法 (Henry Wheaton, Element of International Law)』をいかに英語から漢語へと翻訳したか」という問題である。これは以上に挙げられた、三カ国においてこれまで論じられた問題と同様に重要な問題ではないかと思えるのだが、いかがであろうか。
 もっとも、この問題がまったく等閑に付されてきたわけではなく、「いかに受容されたか」の問題意識において取り上げられ、研究がなされてきている。これは特に、日本においてであるらしい。
 この長大かつ緻密な論考の著者韓氏は、(一)の「序論」において、日本での『萬国公法』が自然法として受容されたという過去の『通説』に関する検討のくだりで、この点についても周到に触れておられる。具体的には大平善梧氏の研究「国際法学の移入と性法論」の要約・紹介である(F7-F9)。

 マーチンの『萬国公法』に関して、大平は、「我が国に自然法と国際法とを一共にして、公法論として輸入したのは丁韙良の『萬国公法』である。丁韙良は、マルチンの支那名にて、多年支那に滞在し、東洋の事情並びにその思想も理解していたので、特に公法思想を力説した様に思われる。或いは彼自ら自然法論者であったろう。彼の翻訳と原本とを対照して見ると、原著以上に公法論が力強く表面に出ている。」とする。また、「条理と合意の二元論に立つ所のホイートンの折中的立場も、丁韙良の訳文には、性法〔引用者注・自然法〕論が最先頭に出でて、殆ど性法の一元論の如くに解され」、合意(general consent)は公議と訳されたり、慣習(usuage)〔引用者注・usage〕は常例と訳されたりするという。
 (F8)

 この大平氏の議論が正しければ、もともと自然法思想で訳された(原書はともかく)訳書である『萬国公法』を受容することは、即テキストをそのとおりに読解することであるとすれば、日本のみならず中国・朝鮮においても、国際法が自然法として理解され受容されたことになるのだが、のち日本ではそれに対する反論がおこり、韓氏の研究史概観によれば、少なくとも現在の日本においては自然法としての受容という説は「少数派であろう」(F2)という。この指摘が事実とすれば、非常に興味深い。自然法的な概念・語彙・表現とで書かれたテキストを、日本の読者は実定法的に読解したということになるからである。

王育徳 「福建の開発と福建語の成立」

2016年07月29日 | 人文科学
 『日本中国学会報』21、1969年12月掲載、同誌123-142頁。

 福建語が「浙江側移民のproto『呉語』と江西側移民のproto『贛語』が西北部で混淆して、福建語の基盤になる」のは後漢時代から三世紀頃にかけて、さらに閩北語と閩何語とに分裂するのは六世紀中頃、隋による一郡四県への改編=境内の重点的開発の終了時期かという議論。
 もっともこれは口語もしくは方言としての福建語(白話音)の成立についてであって、文言音(文言文の発音)は白話音の成立後、「白話音」の発音体系から“借用”されて作られた発音体系であるという(133-134頁)。
 ではその時期はといえば、9世紀唐末五代、閩王国の定めた標準音が、福建語文言音の「本質と考えられる」(「十 閩王国と文言音」133頁)というのが、筆者の見立てである。
 王家の王氏はもと河南省東南隅の固始出身であり、すなわち長安・洛陽方言とは異なるものの同じ中原方言圏の出身であった。彼らの出身地の発音が彼らが福建に立てた閩王国の文言音の発音=標準音となったにちがいないと著者は推測する。
 そしてその標準音に合わせて、既存の福建語白話音から同じ、もしくはそれに近似した発音が、取り出され当てられたのであろうと、著者は論を進める。

 音韻史的に見ても、 一般に〔福建語における〕白話音の音は古く、文言音の音は新しい。明らかに白話音の層の上に文言音の層がかぶさったのである。 
 (「九 時代性の明確な文言音」131頁)

 以下の指摘は、言われてみれば当たり前のことだが、非常に興味深く思った。字が先にあってことばと発音がそれにくっつくのではなく、ことばと発音があって、それを書きあらわすために字が作られるのであるから。

 白話音がすべての漢字に出ないわけは、個々の語彙の上に伝承されてきたものだからである。これに対して、文言音は古典を読むために教授されたものであるから、すべての漢字に必ず発音がつく。 (同上)

『国学大師』 「盡性_詞語「盡性」解釈_盡性 的解釈 - 『漢語大詞典』 」を見て

2016年07月29日 | 思考の断片
 「盡性_词语「盡性」解释_盡性 的解释 - 汉语大词典- 国学大师」http://www.guoxuedashi.com/hydcd/328897h

 わりあい最近出版された東アジア研究(主として中国・日本の歴史・概念史の横断的研究)の大著(論集)で、この「盡性」を「ものごとの本質を究明すること」と、現代日本語に翻訳している例(一論考)を見た。だが本当にそれで良いだろうかと、やや疑問に思った。
 具体的には龔自珍「江子屏所箸書序」の一節である。

 聖人之道,有製度名物以為之表,有窮理盡性以為之裏,〔後略〕 (テキストはWikisourceから)

 龔は清人であり、明清時代ならば、そして人によっては、この意味で使うことはあり得るとは、私個人にはある考えがあって、そう思う。だから龔自珍はあるいはそうかもしれない。しかし、テキストの解釈と翻訳においては、まず踏まえるべきは、その語彙本来の意味であろう。「盡性」は本来、『漢語大詞典』にも挙げられているように、“《禮記•中庸》「唯天下至誠為能盡其性,能盡其性,則能盡人之性,能盡人之性,則能盡物之性」”である。鄭玄はここに、「盡性者,謂順理之使不失其所也。」と注するが、べつに鄭注に頼らずともよい。この“性”が、各人のもつ取り柄・実際的な能力や、世間のものごとのあるべき状態というほどの意味であるらしいことは、テキストそのものの文脈から窺える。つまり具象であり現象である。本質ではない。

山川三千子 『女官 明治宮中出仕の記』

2016年07月29日 | 伝記
 じつに興味深い内容。そして巻末原武史氏の「解説」に、この資料のさらなる深い読み方を教えていただいた。
 なおこれは原氏はなにも仰ってはいらっしゃらないが、大正天皇の「遠眼鏡事件」につき、著者の姑の弟がその場に居合わせて実見し、あとで姑とそのことを語り合っているのを著者が耳にしたという記述がある(「故郷に帰る」315頁)。著者本人の実体験ではないし、さらにその伝聞したことが本当だったとしても、それを目撃したという姑の弟氏が本当のことを言っているとは限らないからだ。さらにははるかな後年、ほぼ半世紀後における回想録であるこの資料には著者による無意識・意識的な記憶の歪曲や再構成もあろう。

(講談社学術文庫版 2016年7月、もと実業之日本社 1960年)

岡田英弘/神田信夫/松村潤 『紫禁城の栄光 明・清全史』

2016年07月27日 | 東洋史
 わが国の教育勅語においては忠君愛国が強調され、尽忠報国が国民の義務とされていたのに対し、六諭が一般庶民の道徳として尽忠報国を要求していないことは、いちじるしい相違点である。これはなぜかといえば。シナでは臣と民とが別のものだからである。臣とは官僚のことで、皇帝の恩顧にこたえて忠誠をつくす義務がある。しかし民すなわち一般の庶民は、皇帝とは直接関係がないので、忠誠の義務もしたがってないわけである。これは秦代以来そうであった。 (松村潤「第二章 乞食から皇帝へ」“里甲制度”、54頁)

 それは何の関係もない人間にどうして年貢を納めねばならんのかと思っても不思議ではない。

 六諭にあげられた徳目は、どれをとってもシナの村落社会では大むかしから実行されてきて、まったくの常識になっているものばかりである。それをことあたらしく六諭という形式で発布した目的はなにかというと、こうしただれひとり反対できない徳目を、みんなに斉唱させるという点にあるのである。斉唱しているうちに、皇帝はすべての道徳の最高の権威であるということになってくる。これが皇帝の人民支配につごうのよい武器になる
 (松村潤「第二章 乞食から皇帝へ」“里甲制度”、54頁)

 いまやアルタンはモンゴル人のハーンたるのみならず、数十万の漢人のコロニーの支配者にもなったのであるから、元の世祖以来の伝統からすれば、皇帝と称する資格は十分にあったわけである。こうして漢人たちがモンゴルを北朝、これに対して明を南朝とよび、ふたつの帝国が対立しているものと考え、アルタンにさかんにすすめて山西方面を経略せしめ、ゆくゆくは北シナを征服させようとしたのであって、一五六七年にアルタンが大挙して山西を蹂躙し、男女数万を殺したのはその影響と思われる。 (岡田英弘「第五章 ハーンと大ラマ」“漢人の集団移住”、104-105頁)

 この“北朝”“南朝”という捉え方、考え方がやや非伝統的に思える。南北朝時代の状況を念頭においた語彙と表現ではあろうが、南北朝に範を取ること自体が通常ではないのではないか。

 念のためにいうが、朝貢というのは、中国の伝統では、友好国の大使が定期的にシナの皇帝を訪問することをさすだけである。だからここでアルタン・ハーンのモンゴルが明の朝貢国になったというのは、決して彼らが明の皇帝の臣下になったことを意味しない。明側からいえば、朝貢を許可するのは、単に相手を独立国として承認する手続きにすぎない。 (岡田英弘「第五章 ハーンと大ラマ」“平和のおとずれ”、107頁)

 対等者という概念とそれをとりあつかう制度が存在しないのだから、仕方がないといえば仕方がない事態ではある。

 ちょうどその時代は、マテオ・リッチはじめ多くのイエズス会の宣教師によって天文学、暦学、数学、地理学など西洋の科学知識が中国に輸入され、その実証主義的方法が中国の知識人に影響をあたえていた際でもあった。儒教の経典に対する実証主義的研究は、清朝の盛世とともにいよいよ発達し、これを考証学といった。 (神田信夫「第十五章 揚州の画舫」“考証学”、304-305頁)

 考証学の研究方法というのは、まずもっとも正しいテキストをえらび、その一字一句について本来の正確な意味を、文献上の根拠をあげて追究してゆくのである。つまり主観に偏した宋明の学者の態度とはまったくことなり、あくまでも客観的に解釈して帰納的論断をくだすという科学的な文献学に類するもので、儒教の研究に新生面をひらいたのであった。 (神田信夫「第十五章 揚州の画舫」“考証学”、305頁)

 上2件。実証主義、そして帰納は、西洋の科学学術からの輸入ということか。