ここで全巻読めるが、いつもながら何か根本的な違和感を覚える。これは現代史と地域研究を除く英語のシノロジー全般について感じることだ。
少なくとも私が平素より見知っている、あるいはいま取りあえず原文を確認できるかぎりの紹介史料の英訳が、私の解釈とはそのニュアンスが――ときに論旨においてさえ――、異なっているからだ。それらが英語として正しいのは彼ら英語圏のシノロジストにとって当然である。しかしそのアルファベット表記の名前から判断して、この論集には漢語を母語とするはずの中国系の研究者も参加・寄稿しているのに、この差異を依然感じる。とすれば、問題は、研究者各人のテキスト読解の巧拙深浅の次元にではなく、ある言語を、それとは文化も思考様式もことなる別の言語に完全に翻訳するという、この段階における、その持つ根本的な困難もしくは不可能性というところにあるのではないか。
(Council for Research in Values & Philosphy, July 1989)
少なくとも私が平素より見知っている、あるいはいま取りあえず原文を確認できるかぎりの紹介史料の英訳が、私の解釈とはそのニュアンスが――ときに論旨においてさえ――、異なっているからだ。それらが英語として正しいのは彼ら英語圏のシノロジストにとって当然である。しかしそのアルファベット表記の名前から判断して、この論集には漢語を母語とするはずの中国系の研究者も参加・寄稿しているのに、この差異を依然感じる。とすれば、問題は、研究者各人のテキスト読解の巧拙深浅の次元にではなく、ある言語を、それとは文化も思考様式もことなる別の言語に完全に翻訳するという、この段階における、その持つ根本的な困難もしくは不可能性というところにあるのではないか。
(Council for Research in Values & Philosphy, July 1989)