大逆事件をあつかったノンフィクション。もとの中央公論社版(1・2巻、1960年3月・7月)ともども、府立図書館に所蔵してある冊すべてを読む。著者のスタンスは異なるが、スタイルは大宅壮一『炎は流れる』に近いというのが第一の感想。
明治40・1907年11月3日の天長節の日に米国サンフランシスコ総領事館の入口に何者かによって貼られた「暗殺主義」なるビラがあった。冒頭に写真(ビラは複数刷られて日本にも送られた。その中の一枚)が載せられているが、その内容は、明治天皇を「睦仁君足下」と呼び、堂々その暗殺を宣言するというすさまじいものであった。
暗殺主義は今や露国に於て最も成功しつつあり、仏に於てまた成功したり、余等の暗殺主義はこれ等の先進者の成敗に鑑みて一層秘細なる研究をつみて生まれたるもの也。〔中略〕睦仁君足下、憐れなる睦仁君足下、足下の命や旦夕(たんせき)に迫れり。爆裂弾は足下の周囲にありて将に破裂せんとしつつあり、さらば足下よ、/1907年11月3日、足下の誕生日/無政府党・暗殺主義者 (末尾部分。前文をこちらで読める)
神崎氏は、この文書の作者を竹内鉄五郎と小成田恒郎であろうとしている。
この文面がただちに日本へ通電され、外務省、ひいては日本政府全体が騒然となったであろうことは想像に難くない。
明治も末になるとすでに昭和のような精神の持ち主が現れてきているのだなという驚き。
(芳賀書店 1968年6月・8月、1969年7月)
明治40・1907年11月3日の天長節の日に米国サンフランシスコ総領事館の入口に何者かによって貼られた「暗殺主義」なるビラがあった。冒頭に写真(ビラは複数刷られて日本にも送られた。その中の一枚)が載せられているが、その内容は、明治天皇を「睦仁君足下」と呼び、堂々その暗殺を宣言するというすさまじいものであった。
暗殺主義は今や露国に於て最も成功しつつあり、仏に於てまた成功したり、余等の暗殺主義はこれ等の先進者の成敗に鑑みて一層秘細なる研究をつみて生まれたるもの也。〔中略〕睦仁君足下、憐れなる睦仁君足下、足下の命や旦夕(たんせき)に迫れり。爆裂弾は足下の周囲にありて将に破裂せんとしつつあり、さらば足下よ、/1907年11月3日、足下の誕生日/無政府党・暗殺主義者 (末尾部分。前文をこちらで読める)
神崎氏は、この文書の作者を竹内鉄五郎と小成田恒郎であろうとしている。
この文面がただちに日本へ通電され、外務省、ひいては日本政府全体が騒然となったであろうことは想像に難くない。
明治も末になるとすでに昭和のような精神の持ち主が現れてきているのだなという驚き。
(芳賀書店 1968年6月・8月、1969年7月)