書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

梅本ゆうこ 『マンガ食堂』

2014年01月31日 | 料理
 モエレ・荒磯カレーのレシピで、佐々木倫子さんの『チャンネルはそのまま!』をまだ一巻も読んでいないことを思い出させて貰った。味平カレーまである。

(リトル・モア 2012年2月)

大阪大学総合学術博物館編 『「見る科学」の歴史 懐徳堂・中井履軒の目』

2014年01月31日 | 日本史
 自身が作成した、宇宙の構造を示した二次元模型『方図』で、中井履軒は、地球を中心に据えたその最も外側の星(静座)のさらに外、つまり「天」の外側の処に、「是ヨリ外ハ我イマタ往タル事ナキ故シラズ」と書いているのを知って、大笑いした(本書29-30頁)。この「往タル事ナキ」は本当に「行ったことがない」という意味ではなく「自らの観測がいまだ及んでいない」(履軒は望遠鏡で天体観測も行っていた)という意味だと、この項の執筆を担当された池田光子氏は書かれているが、いずれにしても、自分の目(それから履軒の場合手)で確かめない限りは「知らない」「判らない」とする履軒の知性は、池田氏も指摘されるように誠実であると同時に、きわめて近代的・合理的であるとも私には映る。

 中井履軒の自然科学(天文学)の知識は、親交のあった麻田剛立経由(それはすなわち明徐光啓/李子藻の『崇禎暦書』ということだが)のほか、みずから学んだ清游藝『天経或問』からのそれもあった。彼は『天経或問彫題』という注釈書まで著している(本書34頁。池田光子執筆)。

(大阪大学出版会 2006年10月)

下原重仲 『鉄山必要記事』

2014年01月30日 | 日本史
 三枝博音編『復刻 日本科学古典全書』8 「冶金・農業・製造業」(朝日新聞社 1978年8月)所収。

 冒頭、「金屋子神祭文」が載っている。司馬遼太郎氏が確か、『街道をゆく』の「砂鉄のみち」で、「鬼気迫る悪文」と評していたが、成程ものすごい。金屋子神が最初に天下ったとされる場所が私の祖先の地に近いことを知った。

樺山紘一編 『岩波講座世界歴史』 3 「中華の形成と東方社会」

2014年01月30日 | 東洋史
 見直しと確認。
 殷周間の言語構造の変化について取り上げた論考がない。あるのは平㔟隆郎氏の「殷周時代の王と諸侯」のみ。順行構造が逆行構造に変わるのは、たとえそれが修飾語〔形容詞〕―名詞のそれだけでも、大問題ではないか。
 そうは思わないのか、この巻に携わった人々は。
 
(岩波書店 1998年1月)

小野蘭山 『重訂本草綱目啓蒙』

2014年01月30日 | 料理
『復刻 日本科学古典全書』第9・10巻(朝日新聞社 1978年9月・10月)所収。

解題部分で三枝博音氏が、明・李自珍『本草綱目』の、小野蘭山による独自の注解釈付き翻訳もしくは訳者自身の学問構想による大がかりな翻案であるこの書を著すにあたり、小野が方以智物理小識』を屡々引用していることに注意している。私は、この選択が著者の見識の一端を示していると思う。
 もう一端は、本書各項目の体裁に現れている。『本草綱目』のような、産地の他は薬用効果のみに偏する実利重視ではなく、「形状・性質を純客観的に、且つ細密に記述するという態度を取っている」(三枝博音「解説」)。

上山大峻 『敦煌佛教の研究』

2014年01月29日 | 地域研究
 2014年01月19日上山大峻「3 敦煌――中国文化との接点」より続き。

 曇曠「大乗二十二問」の原文を読む(「資料篇」に収録されている)。冒頭、曇曠が吐蕃王の寄越してきた問いに答える前に附した口上部分に、確かに“聖顔”“聖情”といった詞が見える。つまり吐蕃王=賛普は皇帝扱いされている。

(法蔵館 1990年3月)

「玩物喪志」という語

2014年01月28日 | 東洋史
 「玩物喪志」という成語は、『尚書』の「旅獒」が初出であり出典でもあるが、この本来の意味は、「珍しい物や綺麗な物、上手い食事などといった感覚的なものにそのゆえに魅せられて没頭してしまうと、そのぶん自分の頭でものを考えなくなる」という意味である。
 『近思錄』で程(明道)の言葉として「明道先生以記誦博識爲玩物喪志」云々とあり、またその弟である程頤(伊川)は、「凡爲文、不專意則不工、若專意則志局於此。(略)玩物喪志。爲文亦玩物也」と言ったとあるのだが、『尚書』のコンテキストからどうやったらそういう解釈や敷衍ができるのか不思議である。そのうえ論拠も示していない。
 実はいま、西洋科学・技術を意味する場合の「格物窮理」を「玩物喪志」と形容する例は日中の儒者にあるかと探している。今のところ見つかっていない。たしか、あったような気がするのだが。ただ、一つ、何と本家朱子学の「格物窮理」を、そう言って罵っている例を発見した。王陽明の『伝習録』である。「乃謂卽物窮理之說、亦是玩物喪志」。

野間文史 『春秋左氏伝 その構成と基軸』

2014年01月28日 | 東洋史
 同じ著者の『春秋学 公羊伝と穀梁伝』と合わせて、これで野間氏の春秋三伝すべてに関するご高見を伺うことができたことになる。
 『左氏伝』が他の二伝に比べ決してわかりやすい存在ではないということがわかった。
 まず、伝としての成立の立脚点がわからない。野間氏が注意されるように、公羊伝は「尊王」であり、穀梁伝は「尊周」である。換言すれば、前者はあるべき“天王”と封建制度を別の空間もしくは未来に希求し、後者は過去に存在した周という王朝と体制とを擁護する(そして延いて恐らくは現在の漢という国家を)という、根本精神の違いがある。
 だが『左氏伝』ではそこが明瞭でない。ただ明らかなのは「『左伝』においては、何よりも周王を頂点とする礼制を守ることが強く要請されている」ことのみである(「第三章 覇者の時代(一)晋文公」本書124頁)。
 これは裏返せば何のために『左氏伝』は書かれたのかということになる。『春秋』は経(典)だから、そのより良い理解のために伝=注(釈)を付けねばならぬという必要、もしくは願望が基礎になっているのは言うまでもない。しかし、それにしても、「どのような注釈をどこに、そしてどれだけ付けるか」という編纂作業下での実際的な選択において、何らかの、明確な拠るべき基準が需められるだろう。『左氏伝』の場合、それは何だったのか。

(研文出版 2010年3月)