書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

小林秀雄 「徂徠」

2016年03月21日 | 人文科学
 テキストは『日本現代文学全集』68「青野季吉・小林秀雄集」(講談社 1963年12月)収録のもの。原文旧漢字・旧仮名遣い。

 小林大人は宋学の「天下ノ理、暁然トシテ洞徹シ、疑惑スル所ナキヲ以テ解トナス」の“天下ノ理”を、「合理主義的世界観と訳せば、この文の現代語訳は易しいであろう」(433頁)と記すのだが、それは違うだろう。合理主義的世界観と訳すから現代語訳が容易になるだけの話だ。宋学の理は倫理的規範もしくは命令で、人間はそれを理解し、受容し、遵守するだけのもので、そこに人間が主体的に思索し探究する、rationalな要素はまったくない。朱子はじつはそれを行って居たのだが、自分ではそうと自覚していなかったらしい。すくなくとも人間独自の知的活動は当然の前提とされているがそれ自体を意識した言説は見られぬようである。そのおかしさ(人間存在の軽視)に気がついて叛旗を翻したのが王陽明ではなかったかと思える。そしてこの点から言うと、のちの陽明学の左派右派ともに、さらには李贅でさえ、みな陽明の嫡出の弟子であったと言えると思う。

今野真二 『図説 日本語の歴史』

2016年03月14日 | 人文科学
 「1-6 日本語を書いた漢文? 古事記 712年」(28-29頁)
 「1-7 漢文で書かれた日本の歴史 日本書紀 720年」(30-31頁)
 
 漢文(古代漢語)の語彙・表現・文で書かれているということをもってそれは漢文であると必ずしも見做すことはできないということ。

(河出書房新社 2015年11月)

「絵空事ではない琉球独立宣言!基地問題について考えるために知っておきたい、『沖縄』の原点」 

2016年03月14日 | 地域研究
 『現代ビジネス』2015年09月21日(月)、松島泰勝氏執筆

 どこから独立するのでしょうか?/あなたが住んでいる日本からです。ですから琉球の独立は他人事ではないのです。琉球人は日本からの独立を宣言します。
 
 松島氏の該著作『琉球独立宣言』を読んだ。それが本当に琉球人の総意ならそうすべきだろうという意見しか、私のような部外者にはない。その余は一言でいえばテクニカルな問題であろう。引用したのは最後の一文だが、だから意味がよくわからない。その口調ともども。

原卓也編 『チェーホフ研究』

2016年03月11日 | 文学
 内外の評論・論考アンソロジー。やはり小林秀雄は入っていた(「チェーホフ」)。日本からはあと福田恆存、神西清、伊藤整。小林の文章を、むかし、「チェホフ」として読んだ。

(中央公論社 1969年7月)

パルヴェーズ・フッドボーイ著 植木不等式訳 『イスラームと科学』

2016年03月11日 | 東洋史
 「理性」が本書のキーワードの一。原著ではrationality(reasonに非ず)。


(勁草書房 2012年1月)

落合弘樹 『秩禄処分 明治維新と武家の解体』

2016年03月04日 | 日本史
 「第一章 江戸時代の武士」“公論の尊重”。
 ここで「公論衆議」と「公議輿論」とが同意語として並べられている。そうであるとすれば、当時の「公論」と「輿論」もまた同じものを指すということであろう。そしてさらに、別の研究者の研究にあるように、「輿論」と「世論」とが別のものであるとするならば、そして後者が多数派の意見だとするならば、世論とは公平の、もしくは公平を求むるの論であろう。では輿論は何を求むるの論か。

(講談社 2015年12月 もと中央公論新社 1999年12月)

文化大革命 - Wikipedia

2016年03月04日 | 地域研究
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD#.E6.89.B9.E6.9E.97.E6.89.B9.E5.AD.94.E9.81.8B.E5.8B.95
“批林批孔運動”条。

 この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみで行われたものであり、学者も多数孔子批判を行ったが、主張の学問的価値は乏しく、日本の学界では否定的な意見が強く、同調したのはわずかな学者に止まった。

 今日の頭で観れば、そういう声がわずかでもあったというところが驚きであるような、あるいは案外そうでもないような。いまならチベット問題を経済格差の問題だと言う主張のようなものかと思えば。

三十六計/並戰計 - 維基文庫

2016年03月04日 | 哲学
 前項より続き。
 https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%A8%88/%E4%B8%A6%E6%88%B0%E8%A8%88#.E7.AC.AC.E5.BB.BF.E5.85.AD.E8.A8.88.E2.80.A7.E6.8C.87.E6.A1.91.E7.BD.B5.E6.A7.90

 第廿六計‧指桑罵槐

  大凌小者,警以誘之。剛中而應,行險而順。【按語】率數未服者以對敵,若策之不行,而利誘之,又反啟其疑;於是故為自誤,責他人之失,以暗警之。警之者,反誘之也:此蓋以剛險驅之也。或曰:此遣將之法也


 “警”(いましむ)でも“暗警”(ひそかにいましむ)でもどちらでもよいが、それがなぜそれ(桑)は自分のことだと相手(槐)は気づくことができるのか。それが示されていない。

指桑罵槐 - 維基百科

2016年03月04日 | 人文科学
 前項の続き。またはその注釈。
 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E6%A1%91%E7%BD%B5%E6%A7%90

 桑と槐の概念の共通性については書かれてはいない。これが「指雞罵狗」(鶏を指して犬をののしる)、「指豬罵狗」(豚を指して犬をののしる)ともなれば、ますますわけが解らなくなる。鶏と犬、豚と犬の何が通底するのであろうか。だがこれら結びつけられる二つのものになんらかの共通性がなければ、これは譬喩ではないということになる。譬喩でなければ何であるのか。

「桃園の誓いは失敗グループ」 『中国という隣人』

2016年03月04日 | 地域研究
 http://aqurelliste.seesaa.net/article/434537679.html

 漢語に“指桑罵槐”という言葉(成語)があるが、なぜ槐の替わりに桑を選ぶのか、そして槐はなぜ桑が自分の替わりだと気付くことができるのか。これが問題である。昔、孔子を周恩来に擬えた時も、かなり呑み込みにくかった。