書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

池田信夫 blog 「民主政治を食い物にする『沖縄の心』」

2014年12月31日 | 政治
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51882386.html

 政府債務は将来世代が負担するので、有権者の過半数を占める団塊の世代以上にとっても問題ない。新聞購読者の過半数も60代以上だから、彼らが沖縄を美化するのも合理的だ。

 「合理的」という言葉の使い方。ここでの「理」は「物理(自然法則)」でも「倫理(道徳原則)」でもない。社会科学的法則。こんにちの「道理」?

ウィキペディア「中国語」から

2014年12月26日 | 思考の断片
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

 諸方言は中国祖語をもとに、タイ諸語などの南方諸語やモンゴル語、満洲語など北のアルタイ諸語の発音、語彙、文法など特徴を取り込みながら分化したと考えられている。その特徴として、声調を持ち、孤立語で、@BlogJoseph 承前)単音節言語であることが挙げられる〔略〕が、現代北方語(普通話を含む)は元代以降、かなりの程度アルタイ化したため必ずしも孤立語的、単音節的ではない。 (「方言」条)

 この立場の代表的なものの一つが、主として字音の変遷からするものではあるが、藤堂明保『中国語音韻論』(光世館 1980年5月)である。例えばこんにち広東語において修飾語が被修飾語の後に来る現象を、唐・宋代以降、北方から漢人の入植が進んだ広東省地方において、漢語が同地方の原住民である壮族の言語の影響を受けた結果としている(同書151頁)。
 しかし橋本萬太郎氏になると見方が逆転し、いま挙げた広東語などは、もとは漢語の方言などではなく、壮族が漢語を習得する過程で自身の言語特有の発音や語彙表現を漢語に覆い被せたものということになる(橋本萬太郎編『民族の世界史』5「漢民族と中国社会」山川出版社 1983年12月、「第Ⅱ章 ことばと民族」、とくに144頁)。
 岡田英弘氏に至るとこの論点はさらに徹底し、漢語は「実は多くの言語の集合体であって、その上に(話者の言語とその発音によってどのようにも読める表意文字であるところの)漢字の使用が蔽いかぶさっているにすぎ」ず、さらにそのもとを辿ればピジン言語で、異なる言語話者間における「文字通信専用の」、完全な人工言語であるとする(同書「第Ⅰ章 東アジア大陸における民族」77-78頁)。これがいわゆる「雅言」であり、「(もとはタイ系であったと思われる)夏人の言語をベースにして、多くの言語、狄や戎のアルタイ系、チベット・ビルマ系の言語が影響して成立した古代都市の共通語、マーケット・ランゲージの特徴を残したものと考えられる」(78頁)。つまり漢語祖語などというものは存在しないという主張である。
 漢語音韻学では漢字の字音を上古音(中古音以前、『詩経』が中心)・中古音(南北朝時代後期~宋初まで)・近世音(宋~清代)・現代音と時代分けする。
 これらの劃期は、現代音を除きすべて、北方からの大規模な民族移動の時期と重なっている。
 この一致について、前出藤堂著ではとくに言及はない。氏の行き方はもっぱら漢語の音韻の時系列的また空間的な変遷を跡づけるものである。これに関して言葉をうらがえして言えば、「なぜ、そしてそう変化したのか」についての説明はあまりされないということでもある。一方の橋本・岡田説は、この「なぜ」「どう」に関する説明を積極的に行おうとするところに藤堂説と対照的であるといえよう。

 第一、周そのものが、西北からの侵入者であり (『民族の世界史』5「漢民族と中国社会」、橋本萬太郎/鈴木秀夫「序章 漢字文化圏の形成」同書32頁)

 この結果、夏人と同じく南方系であったらしく、従って修飾語が被修飾語の後に来ていた殷人の書記言語(甲骨文)は、周代になるとその位置が逆転(アルタイ化)する。「帝嚳」が「武王」となったように。

 帝嚳を、”帝であるところの嚳”である、と同格構造にみなしたがるのは、漢民族の言語の構造が「漢」代の言語の構文の原理によってすべて一貫していて、それ以外の民族の言語要素はいっさいみとめられないとするところの、『漢民族一枚岩史観』の偏見によるものであることは、もはや、多言を要さないであろう。 (橋本萬太郎「第Ⅱ章 ことばと民族」同書116-117頁)

波平恒男 『近代東アジア史のなかの琉球併合 中華世界秩序から植民地帝国日本へ』

2014年12月26日 | 日本史
 出版社による紹介

 1872(明治五)年の、琉球王を「陞(のぼ)して藩王と為す」という詔とそれにともなう措置は、律令制下の令制国の王に報ずるということではなく、それまで薩摩の「附庸国」であった琉球を、日本(帝)国の直接の藩属国に格上げするという意味であり、だから「陞(のぼ)して」という語句が使われているのであるという解釈。つまりまさに「冊封」だった。そしてその目的は「日清両属の解消に直結するものではなく」、「分明二(日清)両属ト見做ス」(左院による答議の一節)ためであった。第2章「琉球藩王冊封とその歴史的意味」、参照。

(岩波書店 2014年6月)


『史記』「秦始皇本紀」から

2014年12月25日 | 抜き書き
 テキストはこちら

  侯生盧生相與謀曰:「始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。〔略〕天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此〔略〕。」 (41) 

 政務への精励、最終決定権の自身への集中は「貪於權勢」という個人的性格の為せるわざで、常態ではなく、さらにいえば望ましくない状況として、ここに描写されている。つまり皇帝の独裁は、この時点では制度として確立されていないし、あるべき姿としても認められていないということ。

中村士 『東洋天文学史』

2014年12月24日 | 東洋史
 出版社による紹介

 干支60年周期の由来については書かれていない。十と十二の最小公倍数は六十だからというだけのことで、バビロニア占星術の60進法とは偶然の一致なのかもしれない。だがそうだとしても今度は十二支の由来が不明なのだ。

(丸善出版 2014年10月)

『漢典』「詞語“倒行逆施”的解釈」

2014年12月24日 | 東洋史
 词语“倒行逆施”的解释 汉典

 伍子胥は春秋時代のしかも楚の人だから、この「常理」「常規」あるいは「正義」は、儒教に依拠するものではない。よしんばこれが筆者司馬遷のそれだったとしても、必ずしもそうであるとは限らない。のこるところは「情理」だが、これは当時においてはどういうものだったろうか。

岡田英弘 『日本人のための歴史学』

2014年12月24日 | 東洋史
 結論を申しますと、日清戦争から後、中国は完全に日本化して、それ以前の伝統的な中国というものは、ほとんど残っていないのです。 (「21世紀、日本は中国とどう向き合うか」本書295頁)

 昔からの事象は残っているが、それを捉える心性が。

(WAC 2007年5月)

冨倉徳次郎 『平家物語全注釈』上中下1下2 

2014年12月20日 | 文学
 私のような素人にはとても読みやすい。語釈の付け所、付け方、口(語)訳の訳しよう、解説を挿む呼吸とその間口の広さと踏み込み。そしてそれらすべての並べ方。座右に置きたい程に。

(角川書店 1976年5月ほか)

田中康二 『本居宣長の思考法』

2014年12月20日 | 日本史
 宣長は、「不可測の理」論によって、からごころ漢意――中国もしくは漢語世界の「理」(=思考と常識)――を、否定すると同時に、「この世には人にはわからないことがある」とすることで、人間の理性そのものをも否定したことになる。本書249頁。

(ぺりかん社 2005年12月)

鈴木健一 『林羅山 書を読みて未だ倦まず』

2014年12月20日 | 日本史
 「右僕射源朝臣」を「源朝臣を射る」と解釈してみせたのも嫌い、家光のお伽衆つまり太鼓持ちを恪勤したのも嫌い、儒者と名乗りながら頭を丸めて法印の位を受け「我国の俗に従っただけ」と弁解したのも嫌い、みな嫌いである。

(ミネルヴァ書房 2012年11月)