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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

英露双方の翻訳をなさった大先輩によるロシア語戯曲の翻訳を、・・・

2018年10月07日 | 人文科学
 英露双方の翻訳をなさった大先輩によるロシア語戯曲の翻訳を、恥ずかしながら初めて拝読した。英語訳からの重訳のような日本語訳の感じがした。上演された舞台の印象もここには重なって、この言葉遣いではおかしいという違和感が拭えない。とりわけ冒頭――「諸君、ここへおいでを願ったのは、きわめて不愉快なことをお知らせするためです。検察官がくるのです」。
 ゴーゴリは、「検察官が乗り物でこちらへ向かっている」と書いた。ロシア語では徒歩で「くる」のと乗り物に乗って「くる」のとでは言葉(動詞)そのものが違う。英語や日本語ではどちらも「来る・come」でOKだが、ロシア語ではこの区別を重視し、意識して、言語化する。この“ズレ”が最初から違和感を持たせる。
 そしてこれは帝政ロシア時代のとある地方都市が物語の舞台だが、そこの市長がこのような上品で知的な喋り方をするだろうかという違和感もある。

高津春繁 『印欧語比較文法』

2018年10月07日 | 人文科学
 ロシア語は名詞文を全面的に一般化し,普通の場合には現在直説法に於ては結辞を全く用いていない. (「第11章 文と語群」本書319頁)

 それは何故かを伺いたかったんですが。元からそうだったのか、以前は結辞(繋辞)を用いていたが省略されたのか。

(岩波書店 1954年7月第1刷 1980年4月第11刷)

巷でときに耳にする「使えないヤツ」という表現は、擬物法だろうか。

2018年10月02日 | 人文科学
 巷でときに耳にする「使えないヤツ」という表現は、擬物法だろうか。たしか『万葉集』以来の伝統の復活? 中土にも韓愈の「送孟東野序」で例がある。ただ韓愈は純粋な修辞として用いているのに対し、ここでの日本語での問題は、人を物に喩える理由だ。「対象となる人間を貶める目的で用いる」と、擬物法――要は人間をモノ扱いすること――の用法が確定されてしまえば、過去の用例もそうではないかと実例を吟味しなおす必要が生じるかもしれない。

 韓愈の擬物法。「人聲之精者為言;文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。 其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。夔弗能以文辭鳴,又自假於韶以鳴。夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於詩書六藝,皆鳴之善者也。」

 現代日本語にも「私は~というモノでございます」という用法があるが、これはこんにちは漢字で「者」と当てるが、この「者」という漢字は、平安初期までの漢文訓読体では、「ヒト」と読んで、「モノ」とは訓じなかった。大野晋先生のご指摘である。「モノといえば物体である。だから、モノは一人前の人間つまりヒト以下の存在を指すという意識が、平安時代初期までは明確にあった」(『日本語をさかのぼる』第1部第3章、33頁)。だから“丁寧の気持”または“卑下”を示す表現になるのだと(同33また34頁)。

 大修館書店の『レトリック事典』(大修館 2006年1月)には“擬物表現”についての条があるが、ここで私の言う擬物法とは異なるもののである。
 その“擬物表現”に続く「3-17-2 考察」において、所謂「自由の女神」は原の英語では"Liverty"であるものを、日本語では「自由の女神」と訳さねばならなかった、日本語と英語の「国語の抽象度」の違いが指摘されている(同書573頁)。

 ちなみに現代漢語では「自由女神」である。これはこれで別の角度から興味深い。

 王希傑『中国語修辞学』(修辞学研究会訳)には私の言う擬物法、『レトリック事典』の言う擬物表現=実体化表現ともに立項・記述がない。さらに『中国修辞学通史』シリーズ(吉林教育出版社)の手元にある巻(全5巻のうち1-3)にもない。「隋唐五代遼金元巻」韓愈項に私の引いた例文含め言及はない。

 目次をざっと眺めて、楊樹達編著『漢文文言修辭學』(原名『中國修辭學』)にもなさそうである。おそらくないだろう。この角度がないということは。例文自体は別の範疇で採られているかもしれないが、「人間を物扱いする」=擬物という修辞技法はここには設定されていない。その理由については、仮説を立てることができる







越智博美 『カポーティ 人と文学』

2018年09月22日 | 人文科学
 対象を昆虫標本みたくピン止めする平板な“人と生涯(もしくは思想)”風の書き物ではなく、作家の作品を(主要な者だけかそれとも網羅的にかという物理的手間の差はあるにせよ)目録化してそのあらすじと世評を紹介するものでもなく、寝る前にざっと見するつもりが、眠気を押して読み耽ってしまった。巻末のさらなる読書の手引きも有機的で――それは全体にも部分としてもよく考えられているということ――、しかも結果として読者にとても親切。

(勉誠出版 2005年11月)

レイモンド・W. ギブズ Jr.著 小野滋/出原健一/八木健太郎訳 『比喩と認知』

2018年09月21日 | 人文科学
 副題:「心とことばの認知科学」
 出版社による紹介

 昼間に「隠喩は内包の同一性を梃子に作られる云々」(私の理解による要約)という意見をネットで見たので、こちらはどう言っているか確かめた。そんなことは書いていない。たぶんそうではないかとは予測していた。この意見が正しいなら内包の概念のない文化や言語に隠喩は存在しないことになるからだ。
 それより換喩(メトニミー)についての記述が気になった(第7章)。筆者はメトニミーを、「あるもののよく知られていたり捉えやすい側面が、そのもの全体を表したり、代替していると捉える」(381頁)とするのだが、これはつまり、おなじものでも、その“よく知られていたり捉えやすい側面”は、言語や文化によって、また同一の言語や文化内においてさえ、地域ごと、社会階層ごとに、異なってくるだろうということである。

(研究社 2008年6月)

ウィキペディア「二重否定の除去」

2018年09月13日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E5%90%A6%E5%AE%9A%E3%81%AE%E9%99%A4%E5%8E%BB

 二重否定の除去(にじゅうひていのじょきょ、英: Double negative elimination)は、論理学、特に命題論理における推論規則の1つである。いわゆる二重否定と等価なものを追加したり(二重否定の導入)、二重の否定作用素を削除したり(二重否定の除去)といった操作を論理式に施す。

二重否定の除去は古典論理では定理だが、直観論理ではそうではない。直観論理では「この場合、雨が降っていない、のではない(It's not the case that it's not raining)」という文は「雨が降っている」よりも弱いとされる。後者は雨が降っていることを証明する必要があるが、前者は単に雨が降っているとしても矛盾しないことを証明すればよい(自然言語における緩叙法形式でもこのような区別が見られる)。二重否定の導入は直観論理でも定理であり、また ¬ ¬ ¬ A ⊢ ¬ A {\displaystyle \neg \neg \neg A\vdash \neg A} {\displaystyle \neg \neg \neg A\vdash \neg A} も直観主義でも成立する。

ウィキペディア 「二重否定」(言語学)

2018年09月13日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E5%90%A6%E5%AE%9A_(%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6)

 一般に否定呼応を用いる言語で、緩叙法は用いられないか、あっても用例は少ない。逆に緩叙法を用いる言語では否定呼応は用いられないか、非文法的とされる。これは緩叙法を用いる言語はひとつの否定表現をひとつの否定語と対応させるため、否定語を重ねることは否定を否定(-×-は+という論理)して肯定を意味することになるためであり、逆に否定呼応を用いる言語では、否定語を複数用いることは否定の否定(-×-)ではなく、否定の強調または否定の成立条件(-+-)であるとされるからである。両者をひとつの言語の中で認めると、論理的な混乱を招くことになる。
 (「概要」下線は引用者)

 ロシア語では否定呼応が存在する。形のうえでは二重否定にみえてもそれは意味は否定の強調である。しかし二重否定も存在する。同項では上記引用部につづいて、英語でも同様の並立状態が歴史的また地域的・社会的方言に存在する事実が述べられる。

 緩叙法をルールとした場合否定呼応は非論理的であり、逆に否定呼応をルールとした場合緩叙法という思考そのものが成り立たないが、否定呼応の廃止は民衆レベルには浸透せず、結果として緩叙法をルールとする「標準英語」と、黒人英語のように否定呼応をルールとし、3つや4つの否定語を対応させることさえある多くの民衆英語(例、「I couldn't get none nowhere.」で、私はどこで誰にも会わなかったとなる)の間での言語規範の不一致による混乱が起こった。学校で標準英語を学んでいる児童が、家庭での民衆英語の規範との混同から二重否定を否定呼応として用いてしまうことなどがその一例である。
 (「英語」)

 日本語についても言及がある。

 現代標準日本語では、二重否定は単純に否定の否定(-×-は+)として見られている。「~しないわけにはいかない」「それを悲しまないものはなかった」のように、肯定を強調する二重否定(緩叙法)は盛んに用いられており、否定呼応をみとめる言語と好対照を成している。  (「日本語」下線は引用者)

 つまり現代日本語以前においては日本語はそうではなかったということになる。
 また、続けてこうもしるされる。
 また、「満更でもない(全く嫌というわけではない)」のように、慣用句として扱われる表現もある。この場合は肯定を強調しているのではなく、否定の緩和、つまり部分的な肯定を表すが、厳密には緩叙法に含めないこともある。


 


ウィキペディア「緩叙法」

2018年09月13日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A9%E5%8F%99%E6%B3%95
 
 論理的には二重否定は肯定に等しく(二重否定の除去)、緩叙法も基本的にはこの論理に従っている。標準的英語もこの論理に従うが、その他の言語(英語の方言や古語も含む)では必ずしもそうではない。これについては二重否定を参照。 (「その他関連事項」下線は引用者)  

 この「論理」とは古典論理すなわち西洋の形式論理のことである。