書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

今週のコメントしない本

2006年12月30日 | 
①感想を書くには目下こちらの知識と能力が不足している本
  なし

②読んですぐ感想をまとめようとすべきでないと思える本
  スタッズ・ターケル著 中山容ほか訳 『「よい戦争」』 (晶文社 1985年7月)

③面白すぎて冷静な感想をまとめられない本
  なし

④参考文献なのでとくに感想はない本
  関幸彦 『戦争の日本史』 5 「東北の争乱と奥州合戦 『日本国』の成立」 (吉川弘文館 2006年11月)
  田中弘之 『幕末の小笠原 欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』 (中央公論社 1997年10月) 

  アミン・マアルーフ著 牟田口義郎/新川雅子訳 『アラブが見た十字軍』 (リブロポート 1986年6月初版第3刷)

⑤ただ楽しむために読んだ本
  早坂隆 『世界の日本人ジョーク集』 (中央公論新社 2006年1月)

  持永只仁 『アニメーション日中交流記 持永只仁自伝』 (東方書店 2006年8月)

  オルハン・パムク著 和久井路子訳 『雪』 (藤原書店 2006年3月)

  佐伯有清 『最澄と空海 交友の軌跡』 (吉川弘文館 1998年1月)


 では良い年をお迎えください。

フランシス・L・ホークス編 土屋喬雄/玉城肇訳 『ペルリ提督 日本遠征記』 (全4冊)

2006年12月29日 | 日本史
 全方位的な視野、そして次々に遭遇する未知の状況下で、おのれを取り巻く事象に対して行う細心にして虚心な観察、さらにそれによって得た知見を他者へ伝達し情報として共有するために、細部にわたる克明な描写と誇張を排した的確な叙述を心がける姿勢は、久米邦武編『米欧回覧実記』と類を同じくする。違うのは、この『ペルリ提督 日本遠征記』は西洋が東洋に出会う記録、『米欧回覧実記』は東洋が西洋に出会う記録という点くらいなものである。

(岩波書店版 1990年10月第8刷ほか) 

思考の断片の断片(4)

2006年12月28日 | 思考の断片
●「朝鮮日報」2006/12/28 07:35、「100トン級『独島管理船』建造、08年進水へ」
 →http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/12/28/20061228000004.html

 舳先に李舜臣の立像を据えるというアイデアはどうだろう。

●「asahi.com」2006年12月27日20時13分、「日中共同歴史研究初会合終わる 日中戦争の解釈が焦点」
 →http://www.asahi.com/politics/update/1227/011.html
●「人民網日本語版」2006年12月27日、「中日歴史共同研究、両国座長が談話を発表」
 →http://j1.peopledaily.com.cn/2006/12/27/jp20061227_66394.html

 “双方が歴史問題を適切に処理することができれば、エネルギー・環境・資源など多くの分野で両国がさらに有益な協力を実施するうえでプラスとなるだろう”(後者に引用される、北岡伸一日本側座長の発言)

 「適切に処置すること」が目的であって歴史事実を究明することや相互理解を進めることが目的ではない――少なくとも第一の――ということか。それなら解る。

●井川慶投手の顔は若い頃の明治天皇に似ている。

●「池田信夫 blog」2006-12-27、「2ちゃんねる化するウィキペディア」
 →http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/d/20061227

 “だから2ちゃんねるは、日本社会の汚物みたいなものだが、排泄物を見れば健康状態がわかるように、そこには社会の裏面が映し出されている。匿名の世界では会社などの「ムラ社会」の抑圧から解放されるため、そのストレスを悪口や民族差別で解消する。「他人志向」で自我が弱く、何かを主張するよりも他人の評判を傷つけることに快感を覚える。自分の意見というものがないから、一方的な悪口ばかりで論争や相互批判が成立せず、議論の客観性をチェックする習慣がない

 なるほどその通りである。特に、後半の太字にした部分は。
 つまり2ちゃんねるに限らず、“「他人志向」で自我が弱”い人間は、“自分の意見というものがないから”、彼らと話すのは無駄ということだ。これもよく解った。

明治文化研究会編 『明治文化全集』 第十六巻 「思想篇」

2006年12月28日 | 日本史
 久米邦武「神道は祭天の古俗」(明治二五・1892年)に左袒する私には、会沢安(正志斎)「新論」(安政四・1857年)は、狂人のたわごととしか思えない。尾佐竹猛の解題によってこの思想書が近代日本史上で有する意義と重要性は理解するのだが。ちなみに「神道は祭天の古俗」の解題は柳田泉で、例によって盛り込むべき事項に遺漏なく、かつ贅句もなくと、見事なまでに過不足のない一文を寄せている。

(日本評論社 1992年10月復刻版第一刷)

張群著 古屋奎二訳 『日華・風雲の七十年 張群外交秘録』

2006年12月26日 | 東洋史
 “日本軍閥の中国侵略思想は明治維新より以前、豊臣秀吉の時代から始まる”、“武士道は強きを頼み弱きをくじく精神である”、“田中上奏文は本物である”、これが陸軍士官学校卒の日本留学経験者、中華民国における知日派の筆頭とされる存在、戦前戦後を通じ一貫して対日外交の総責任者だった人物、しかもかつて行政院長(=首相)の職にあった者の言うことか。
 あるいは、所詮は外省人、大陸中国と同じ穴の狢か。

(サンケイ出版 1980年8月)

明石康 『国際連合 軌跡と展望』

2006年12月25日 | 政治
“国際公務員制度が抱えている課題は多い。その第一は、「国際的忠誠」に絡まる問題である。国連職員は国連のみに忠誠を誓い、国際的中立性を守らなければならない。しかし自国の国家的な利益と、国連によって代表される国際的利益が衝突する時はどうすればよいのだろうか。国連職員は国際的利益に奉仕することによって、究極的には自国の国家的利益が守られるのだという信念をもたなければならないと私は考えている。しかしそれは頭で納得できても、行動の上でいつも可能だとはいい切れない” (「第8章 事務総長と国際公務員」 本書187頁)

 明治維新政府の官員も同じ悩みを悩んだのではないか。
 現代の国際連合と明治の日本政府とでは規模が違いすぎる、同日に論じるのはおかしいという意見もあるかもしれない。しかし両者が心に感じる板挟みの苦悩の深さにまで差があるかどうか。これはちょっとわからない。

(岩波書店 2006年11月)

思考の断片の断片(3)

2006年12月25日 | 思考の断片
●「中央日報」2006.12.22 16:28:59、「『私は正気』盧大統領、演壇叩いて70分『決意に満ちた発言』」
 →http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=83017&servcode=200§code=200

 一国の最高指導者の発言として、「私は正気だ」は「私はペテン師ではない」(リチャード・ニクソン)と同じくらい恥ずかしいものだろう。

●「The Taipei Times」, Saturday, Dec 23, 2006, "Dialogue between the West, Iran and Syria leads to a dead end"
 →http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2006/12/23/2003341635

 筆者は Ammar Abdulhamid というシリア人。記事末尾の筆者プロフィールによれば、反政府派陣営に属する人物らしい。しかしこの報道から判断する限り、立場は柔軟で、是々非々主義に近い人に思える。
 
Ammar Abdulhamid is a Syrian author, blogger and dissident. He runs the Tharwa Foundation, an independent initiative that focuses on diversity issues in the region. (筆者プロフィール)

 以下は、記事から「これは」と思ったくだりの抜き書き。

"Advocates of the Iraq war lacked an understanding of the complexities on the ground to wage an effective war of liberation and democratization. As a result, their policies merely ended up eliminating Iran's two major regional rivals: the Taliban and Saddam Hussein's regime. This presented Iran with a golden opportunity to project itself as a regional hegemon, and Iran's leaders are unlikely to let this opportunity slip away."

 太字は引用者による。
 次も同様。

"Advocates of dialogue with the Iranians and their Syrian allies, like former US Secretary of State James Baker, labor under the delusion that they can actually reach an understanding that can enable a graceful US exit from Iraq and help stabilize that wounded country. The delusion is based on two false assumptions -- that the Iranians and the Syrians can succeed in Iraq where the US has failed, and that the international community can afford to pay the price of ensuring their cooperation."

 つまり、1パラグラフの全てを「これは」と思ったというわけ。

今週のコメントしない本

2006年12月23日 | 
①感想を書くには目下こちらの知識と能力が不足している本
  読売新聞社編 『昭和史の天皇』 9 (読売新聞社 1976年5月第11刷)

②読んですぐ感想をまとめようとすべきでないと思える本
  該当作なし

③面白すぎて冷静な感想をまとめられない本
  服部之総 『黒船前後・志士と経済 他十六篇』 (岩波書店 1984年2月第3刷)

  薩摩秀登 『物語 チェコの歴史 森と高原と古城の国』 (中央公論新社 2006年3月)

④参考文献なのでとくに感想はない本
  田中彰 『幕末の長州 維新志士出現の背景』 (中央公論社 1981年1月19版)

  岡崎久彦 『陸奥宗光とその時代』 (PHP研究所 1999年10月)
  鶴見俊輔著者代表 『日本の百年』 7 「明治の栄光」 (筑摩書房 1962年12月)
  鶴見俊輔著者代表 『日本の百年』 6 「成金天下」 (筑摩書房 1962年11月)

  上野益三 『お雇い外国人』 3 「自然科学」 (鹿島出版会 1979年5月第2刷)

  ロン・サスキンド著 武井楊一訳 『忠誠の代償 ホワイトハウスの嘘と裏切り』 (日本経済新聞社 2004年6月)

  デーヴ・グロスマン著 安原和見訳 『「人殺し」の心理学』 (原書房 1998年7月)

⑤ただ楽しむために読んだ本
  石井進編 『歴史家の読書案内』 (吉川弘文館 1998年4月)

  山内一也 『地球村で共存するウイルスと人類』 (日本放送出版協会 2006年9月)

  山本麻子 『ことばを使いこなすイギリスの社会』 (岩波書店 2006年10月)

  永島ヒデ/永島直子/永島牧子 『祖母ログ うんまいゴハンがみんなをつなぐ』 (東京書籍 2006年12月)

  高橋ツトム 『爆音列島』 9 (講談社 2006年10月)

思考の断片の断片(2)

2006年12月22日 | 思考の断片
▲「Sankei Web」2006/12/21 10:48 「拉致禁止条約採択で北朝鮮反発 国連総会で全会一致」
 →http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/061221/kra061221001.htm

 日本政府が北朝鮮国民を拉致しているという主張の真偽はさておき、「だって他の国でもやっているじゃないか」という理屈を平気で口にする主体思想の国民には何らの主体性もなし。
 もっとも主体(チェチェ)思想とは個人の尊厳を否定し、自我と個性と自主的思考を滅却する教えであるが。

▲「The Taipei Times」, Friday, Dec 22, 2006, "Japan says N Korea killing talk"
 →http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2006/12/22/2003341468

 たとえば金桂冠(寛)・6カ国協議北朝鮮首席代表など、手足の生えた伝声管ぐらいの存在ではないか。
 ひたすら訓令を遵奉するばかりの存在で、自分から意見具申などは行わず、また行えもしないのだろう。

▲「asahi.com」2006/12/20、「中国『氷点週刊』前編集長、現政権のメディア政策を批判」
 →http://www.asahi.com/world/china/news/TKY200612200364.html

 つまり王様は裸であるということ。

▲改正教育基本法成立。べつに関心はない。
 私は、劣等生である以前に、学校という制度に関して、根本的な不適格者だった。教師の言うことをどうしても鵜呑みにできなかったからだ。
 私は、一個人の人生や人間形成において、学校教育がはたしてどれほどの重要性を有するのか、疑問に思っている。
 私にとって学校とは退屈で無意味な牢獄だった。そこで教えられ(押しつけられ)るものはせいぜい、時に自発的な探究のきっかけとなる――しかも往々にして反面教師として――ぐらいの意義しかなかった。
 だから私は、自分の子供についても、学校で何が教られるかにさほど関心を持たない。知識の源は学校だけではない。興味があれば、自分で調べ、学ぶだろう。
 それに、もし学校でおかしなことを教えるなら、家庭で「それはおかしい」と否定すればいいことである。 

井上勝生 『シリーズ日本近現代史』 ① 「幕末・維新」

2006年12月21日 | 日本史
“幕末後半期の日本の国際的環境を以上のように見ると、幕府と薩長、両陣営の対立が深刻化する中で、日本に最大の影響力をもつイギリス外交は、中立、不介入の路線を確定しており、それを明確に表明してもいた。イギリスの判断の基礎には、列強の勢力均衡という日本の地勢、日本の政治統合の高さ、イギリス海軍の能力の限度、貿易のおおむね順調な発展、大名の攘夷運動の終息、西南雄藩の開明派の台頭などがあり、中立、不介入方針は確立されていた。/日本に国際的な重大な軍事的危機が迫っていたわけではないのである。(略)たしかに、軍事力、経済力の格差は大きく、日本に一般的な対外的危機がなかったとはとてもいえない。しかし、列強、とくに影響力が大きかったイギリスにしてすら、日本を植民地化するような具体的な侵略的介入をする可能性は、当時の政治の動向からいえば、実は低いものであった” (「第3章 開港と日本社会」、本書146-147頁)

 ならば何故、たとえば明治初年の日本維新政府が、朝鮮に対して日朝修好条規(1876年)などという、一面で朝鮮を近代的な独立国として認めながら、残る半面で朝鮮の植民地化につながる経済的侵略を自らに許す、著者の言葉を借りれば「徹底的な不平等条約」を強制したのか、という疑問が湧く。
 この点に関する井上氏の説明は、「朝鮮に対して欧米と立場を同じくし、東アジアの小西欧として臨んだ」ことの背景には、「朝鮮に不平等条約を強制する外交を進める限り、西欧列国との利害は一致する」という日本政府の「確信」があったというものである。面白い。

(岩波書店 2006年11月)