書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

浦谷年良 『「もののけ姫」はこうして生まれた。』 から

2009年12月28日 | 抜き書き
 こういうテーマを訴えたいと言うんだったら、そのテーマは自分の中で消化されてる訳ですから、楽ですけどね。プロパガンダ映画っていうのは、政治的なことだけじゃなくてね、植物を大事にしましょうという映画だって、くだらないですよね、同じように。もう分かってるんですから、そんなことは。そういうもの作っても仕様がない。 (宮崎駿、「第二章 企画構想、遙かな道のり」 本書51頁。太字は引用者)
 
 興奮と不安。それは表現する者の栄光でもある。自分でもワケが分からなくなって、そこから映画作りが始まると、宮崎さんはしばしば言ってきた。確かに、自分が知っているものを伝えるのは伝達であって表現ではない。表現とは、自分でもよく分からないものと格闘し、自分を搾り出すようにして、掴み取るものなのである。 (浦谷年良、「第三章 宮崎駿の創造回路が見えてくる」 本書130-131頁。太字は引用者)

 文章を書くということも、同じであろう。あるべき線を探るとは、あるべき文体を探ることであり、言い留めることばを探すことだ。

(徳間書店 1998年10月)

「三国志『曹操の墓』と断定…河南の墳墓、遺骨確認・副葬品の数々も」 から

2009年12月28日 | 抜き書き
▲「Yahoo! Japanニュース」12月27日20時50分、サーチナ、編集担当:如月隼人。 (部分)
 〈http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091227-00000019-scn-cn

 最も有力とされた証拠は、「魏武王」との文字が刻まれた石牌が発見されたこと。記録によると、曹操は「魏公」ついで「魏王」に封じられた(地位を与えられた)。死後に贈られた諡号(しごう)は「武王」で、出土した石牌と一致する。
 なお、曹操は後に「魏の武帝」と呼ばれるようになったが、曹操を「武帝」と称するようになったのは子の曹丕が後漢の献帝からの禅譲(位を譲ること)により皇帝に即位してから。石牌にある「魏武王」は、むしろ曹操が死去した当時の史実に合致する。

 ほかの報道によれば、薄葬だったそうだ。

浦谷年良 『「もののけ姫」はこうして生まれた。』

2009年12月28日 | その他
 こちらは本。
 『千と千尋の神隠し』で油屋が何だかんだ、千のやっていることは実は少女売春だなんだかんだと騒ぐ一方で、この本で、また同名のドキュメンタリーで、宮崎監督が自ら認めているように、アシタカは、あまり露骨には描いていないが実は穢れの者、人外の存在として村から逐われたのだということを、あまり問題にしないようであるのが不思議でならない。「グルグル巻きの爺さん」(電通の曽我有信氏の言)もそう、こちらのほうが問題としてよほど深刻であろうが。差別なのだから。それともエイズやハンセン病より援助交際のほうが大事(おおごと)なのか、君らには?

(徳間書店 1998年10月)

『千と千尋の神隠し』(2001年)を久しぶりに観る

2009年12月27日 | 思考の断片
 養老孟司/宮崎駿 『虫眼とアニ眼』 (新潮社 2008年1月)に触発されて。

 宮崎駿監督みずから「絵の精度を極めた」(NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』2007.3.27「映画を創る~宮崎駿・創作の秘密~」』)というだけあって、緻密で丹念な、美しいかぎりの画面だ。ストーリーも、起承転結を意図的に無視しているところが個人的にはおおいに好きである。
 2001年に公開されてから、油屋が娼館だとか、あの湯女は売春婦だいやちがうといったような論争がかまびすしく起こったが、私にはこれらについて、ほとんど興味がない。宮崎監督の「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」(日本版『プレミア』2001年6月21日号)といった発言や、鈴木敏夫プロデューサーの「『キャバクラで働く女の子はどちらかといえば引っ込み思案の子が多く、お金をもらうために男の人を接待しているうちに、苦手だった他人とのコミュニケーションができるようになる。お金を払っている男のほうも同じようなところがあって、つまりキャバクラはコミュニケーションを学ぶ場だ』と。ぼくはこの話がおもしろくて、宮さんに話したことがあったんです。それが『千と千尋』のモチーフになったと言う」という証言(『仕事道楽 スタジオジブリの現場』、岩波書店 、2008年7月)に、そうかと頷くのみである。
 おのれの水の腕(かいな)に抱いた千尋を前に、河の神様(みるからに老翁)が、「善き哉、善き哉」と呟くシーンが、はたして性交の暗喩かどうかも、私にはどうでもいいことだ。そもそも神様の交わりを人間のそれと同一次元で論じることが、まちがっている。

赤嶺守 『琉球王国 東アジアのコーナーストーン』 から

2009年12月27日 | 抜き書き
 〔琉球〕国王印は「駝鈕鍍金銀印」と呼ばれ、取っ手の部分は駱駝の形で、材質は銀製で金メッキがほどこされてあった。朝鮮・日本は取っ手の部分が亀鈕の金印が下賜されたが、琉球を含め安南・爪哇・暹羅などはすべて「駝鈕鍍金銀印」だった。 (冊封体制と琉球王国」 本書174頁)

 日本についてはいつのことかわからないので措くが、歴史事実としては、朝鮮王は歴史を通じて国王として冊封されていたが、安南(越南・ベトナム)はそれよりも一格下の郡王扱いされていた時期が長い。この記述はつまり、琉球もまた明・清朝からは一国の王ではなくそれ以下の一地方の王として見られていたということである。

(講談社 2004年4月)

安里進ほか 『沖縄県の歴史』

2009年12月27日 | 日本史
「県史百年史シリーズ」第47巻。

 明朝に取って代わった満洲人の清朝は、征服した中国の漢民族に命令を下し、みずからの弁髪の風俗を強制した(1644年・1645年)。しかしモンゴル人にはそうではなく(もっともモンゴル族は独自の弁髪をもとから行っていた)、チベット人に対してもいっさい行っていない。新疆(回部)のイスラム教徒には基本的に満洲人の風俗に倣うことを禁止し、ただ官品の授与に伴う恩恵として“弁髪胡服”を特別に許す形式を取った。ここから、いわゆる一括して藩部と呼ばれる諸地域にたいする清朝側の個別の位置づけの違いが窺えるようである。
 藩属国についても、三大藩属国の安南・朝鮮・琉球に対して、弁髪の強要を行っていない。
 このころすでに琉球を従属国化していた薩摩藩は、琉球人が弁髪姿になれば幕府の権威の失墜は避けられないとして、清から弁髪せよとの命令が来ることを恐れていたという(「5章 東アジアの変動と琉球」 本書144頁)

(山川出版社 2004年8月第1版第1刷)

佐久田繁編著 『やさしい沖縄の歴史』

2009年12月27日 | 日本史
 1422年に明より冊封されて以来、清時代を通じて、琉球王は王冠として皮弁冠を被っていた(24頁)。ちなみに琉球王族の「尚」という姓も、中国(明)から賜ったものであった(同)。だから「第一尚氏」と「第二尚氏」は、何の血縁関係もないのに姓が同じなのは当然なのである。
 琉球王は、清朝時代になっても明朝時代の服制をそのまま使用していた。新たに琉球王が立つごとに御冠船(うかんせん)に乗って中国からやってくる弁髪胡服の清朝の冊封使は、前代の王朝の服飾をまとった琉球王の出迎えを受けたことになる。
 なお皮弁冠は琉球語で「玉の御冠(タマンチャーブイ)」と呼ばれた。皮弁服は琉球語では「唐衣装」である(参考:『那覇市』ウェブサイト、「琉球王尚家伝来品の重要文化財指定について (添付資料) 琉球王尚家伝来品について」)
 皮弁冠・皮弁服は明朝の礼制では二品で国王の下の郡王待遇となる(赤嶺守『琉球王国 東アジアのコーナーストーン』、講談社、2004年4月、172-174頁)。清朝では礼制が変わり、冊封時における皮弁冠・皮弁服下賜の制度も廃止されたため、王印の下賜のみとなった(同174頁)。

(月刊沖縄社 1993年10月)

「中国と平和協定を結んだチベット人死去 2009年12月23日 新華社通信」 から

2009年12月27日 | 抜き書き
▲「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」
 〈http://www.tibethouse.jp/news_release/2009/091223_abo.html

 北京:元チベット軍司令官で、人民解放軍に降伏し、北京で中国と平和協定を結んだアポ・アワン・ジクメー氏が23日水曜日、100歳で最後の息を引き取られました。
 アポ氏は、チベット貴族の生まれで、1950年、チベット軍の司令官を務め、チベットと中国・四川省の国境周辺にて人民解放軍と戦い、短い戦闘ののち敗れ、降伏しました。そして1951年、チベット代表団の代表として、チベットにおける中国の主権を認める代わりに自治と宗教の自由を保障するという「17ヶ条協定」に署名しました。その8年後、ラサでチベット民衆の蜂起により、チベットの精神的指導者ダライ・ラマ法王はインドへ亡命し、数万人のチベット人も後を追うこととなりました。
 アポ氏は、北京に残り、中華人民共和国軍や政府の役職に就き、23日水曜日、北京で亡くなりました。

 アポ・アワン・ジクメーは、映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』にも出てくる。
 この記事、一昨日はなかったと思う。昨日はこのウェブサイトを訪れなかったからわからない。
 彼の死が23日に新華社をはじめ中国メディアで伝えられてから、ここでいつ、どのように伝えられるか関心をもって見ていた。 新華社通信と銘打ちながら内容は独自、論評抜きの事実のみ、ただし敬語付きか。

好みの問題ですが(今日観たジブリ作品ふたつ)

2009年12月26日 | 思考の断片
 『耳をすませば』より『海がきこえる』のほうがおもしろかった。感覚が新鮮だったし。

 理想のない現実主義者ってのは最低ってことだからね。 (宮崎駿・NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』2007.3.27「映画を創る~宮崎駿・創作の秘密~」)

 理想にもいろいろあらあな。

 感じがわからないのは無能、感じはわかるけど描(か)けないっていうのは、やっぱり無能。 (宮崎駿・ドキュメンタリー『もののけ姫はこうして生まれた。』)

 描き方にもいろいろあらあな。