書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

石川松太郎訳 『庭訓往来』

2017年12月12日 | 日本史
 出版社による紹介

 訳者石川氏の巻末「解説」に、この往来物が朝鮮へと渡って日本学習の教科書(日本語通詞〔通訳官〕の資格を認定するための国家試験の参考書。永享2/1430年頃)の一つにもなったという事実が記されている(343頁)。不思議の感に打たれるとともに、そうなさしめた原因と理由にも興味を掻きたてられる。

12月13日追記
 石川氏は、「解説」で、こう指摘されている。『庭訓往来』の早期の注、いわゆる『旧抄』とよばれるものは、語意や語法、書式については原文に即した手堅い注をつける一方、本文中に出てくる事件・事物・月日・人名にことよせて、「荒唐無稽」な、「さまざまの由来話・縁起譚・民間説話の類い」を、「本文との脈絡などまったく顧慮するところなく、ながながと引用」する、それが同注の特徴であると(347頁)。だが、その「脈絡」――この場合、本文とのそれ、また本文そのもののそれ――とは、何であろう。また何をもって脈略に沿っている、沿っていないと判断するのであろう。石川氏は何に拠られたか。『旧抄』を著した注釈者は、おのれの注の付けかたこそが脈略に沿うものと考えて結果そういった注を著したかも知れないのである。その可能性は吟味せずともよいのだろうか。

(平凡社 1973年11月)

シューベルトのウィキペディア項をみて・・・

2017年12月12日 | 思考の断片
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

 「出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください」と、注文が付けられている。
 脚注欄をみると引用文献のほとんどに引用頁が示されていない。先ずはこのことを指すのだろう。資料を頭から読んで自分で探せというのだろうか。あとは参考文献だろう。これはウィキのこのシューベルト項に限ったことではなく上は碩学の論著から下は学生のレポートに至るまで実物に接して思うのだが、参考文献とは、「筆者が論著を書く際に参考にした文献」なのか、それとも「さらに知りたい読者が読んだあとで参考にすべき文献」なのか。
 いずれにせよこれもどこを参照した、あるいはすべきなのか、頁数もしくは例えば章数など最低でも明示すべきだろう。本当なら本文中に随時注をつけてここはなにを参考して記述した旨表示すべきである。私は、人がそれをしないことが理解できない。