書名の大河内は上野(群馬県)高崎藩の藩主の姓で、最後の藩主であった輝声(てるな・1847-1882)を指す。
輝声は明治維新で廃藩置県が行われた後は浅草今戸町に邸宅を構えて文人墨客と遊ぶ悠々自適の生活を送っていた。明治10年11月、西南戦争のために赴任が遅れていた清の駐日公使一行が東京へ到着すると、当時30歳だった彼は芝増上寺月界院に置かれた公使館へ毎日のように赴き、彼等と漢文で筆談を交わす。これはその筆談の記録である。
公使館で彼の筆談の相手となったのは、堅実で綿密な性格を持ち、平素は穏やかだが時に毅然とした態度を見せる若き参賛(書記官)、黄遵憲だった。(今月19日欄『日本雑事詩』参照。)
(平凡社 1981年2月初版第4刷)
▲29日欄に『環球時報』『人民日報』の虚報について私が書いた内容について、林思雲氏からご感想をいただいた。氏のご許可をいただいて関連部分を日本語訳のうえ掲載させていただく。
“中国人の論法について、おっしゃるとおりだと思います。感情まかせに物を言う部分がかなり大きい。ニュートン力学が確立した、観察と推論に基づく思考様式は、中国の歴史においては出現しませんでした。近代以降の中国はさまざまな方面で近代化を果たしていますが、思考様式においては依然として伝統的な状態のままです。/中国式思考様式の特徴は道徳論であることです。いかなる場合でも、第一に道徳的な基準で価値判断されます。真実や真理は道徳に従属します。中国の道徳でもっとも重要とされるのは“我々”の都合の悪いことは言わないことです。ある人が孔子に、羊を盗んだ自分の父親を告発するのは道徳的かとたずねました。孔子は道徳的ではないと答えました。子は父をかばって父の過ちを隠す、それが道徳的であると。/孔子のこの考えかたは、今日の中国でも随所に見られます。たとえば、もし中国人が外国でなにか悪事をはたらいたとします。それをほかの中国人が指摘したり批判したりすれば道徳的な見地による非難を受けるでしょう。批判者の言いかたはこうです。「中国人ならどうして同胞をあげつらうのか。おまえはそれでも中国人か。」/日本をめぐる問題でもそうです。中国人の思考様式に従えば日本は“我々”の仇敵なのだから、日本人のイメージを損ねるならば、それが嘘であっても国のためになるから良いということになるのです。嘘でも“善意の嘘”だから良いのです。反対に、この種の“愛国のための善意の嘘”を嘘であると指摘するのは、中国の地位とイメージを傷つけるから、“悪意の真実”であり、その人は売国奴、漢奸と見なされます。/中国では“悪意の真実”より“善意の嘘”のほうが選ばれるのです。これが、『人民日報』やその他のメディアで日本についての誤まった報道が氾濫しているにもかかわらず、指摘したり批判する人間がいない理由のひとつです。/鄭若思氏をはじめとする人々がインターネットでこの“善意の嘘”を指摘批判しましたが、このような“悪意の真実”は中国の公式なメディアでは発表できません(国内、国外を問わず)。/私が現在もっとも望んでいることは、中国人が伝統的な思考様式を改めることです”
輝声は明治維新で廃藩置県が行われた後は浅草今戸町に邸宅を構えて文人墨客と遊ぶ悠々自適の生活を送っていた。明治10年11月、西南戦争のために赴任が遅れていた清の駐日公使一行が東京へ到着すると、当時30歳だった彼は芝増上寺月界院に置かれた公使館へ毎日のように赴き、彼等と漢文で筆談を交わす。これはその筆談の記録である。
公使館で彼の筆談の相手となったのは、堅実で綿密な性格を持ち、平素は穏やかだが時に毅然とした態度を見せる若き参賛(書記官)、黄遵憲だった。(今月19日欄『日本雑事詩』参照。)
(平凡社 1981年2月初版第4刷)
▲29日欄に『環球時報』『人民日報』の虚報について私が書いた内容について、林思雲氏からご感想をいただいた。氏のご許可をいただいて関連部分を日本語訳のうえ掲載させていただく。
“中国人の論法について、おっしゃるとおりだと思います。感情まかせに物を言う部分がかなり大きい。ニュートン力学が確立した、観察と推論に基づく思考様式は、中国の歴史においては出現しませんでした。近代以降の中国はさまざまな方面で近代化を果たしていますが、思考様式においては依然として伝統的な状態のままです。/中国式思考様式の特徴は道徳論であることです。いかなる場合でも、第一に道徳的な基準で価値判断されます。真実や真理は道徳に従属します。中国の道徳でもっとも重要とされるのは“我々”の都合の悪いことは言わないことです。ある人が孔子に、羊を盗んだ自分の父親を告発するのは道徳的かとたずねました。孔子は道徳的ではないと答えました。子は父をかばって父の過ちを隠す、それが道徳的であると。/孔子のこの考えかたは、今日の中国でも随所に見られます。たとえば、もし中国人が外国でなにか悪事をはたらいたとします。それをほかの中国人が指摘したり批判したりすれば道徳的な見地による非難を受けるでしょう。批判者の言いかたはこうです。「中国人ならどうして同胞をあげつらうのか。おまえはそれでも中国人か。」/日本をめぐる問題でもそうです。中国人の思考様式に従えば日本は“我々”の仇敵なのだから、日本人のイメージを損ねるならば、それが嘘であっても国のためになるから良いということになるのです。嘘でも“善意の嘘”だから良いのです。反対に、この種の“愛国のための善意の嘘”を嘘であると指摘するのは、中国の地位とイメージを傷つけるから、“悪意の真実”であり、その人は売国奴、漢奸と見なされます。/中国では“悪意の真実”より“善意の嘘”のほうが選ばれるのです。これが、『人民日報』やその他のメディアで日本についての誤まった報道が氾濫しているにもかかわらず、指摘したり批判する人間がいない理由のひとつです。/鄭若思氏をはじめとする人々がインターネットでこの“善意の嘘”を指摘批判しましたが、このような“悪意の真実”は中国の公式なメディアでは発表できません(国内、国外を問わず)。/私が現在もっとも望んでいることは、中国人が伝統的な思考様式を改めることです”