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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

さねとうけいしゅう(実藤恵秀)編訳 『大河内文書 明治日中文化人の交遊』 

2005年01月31日 | 東洋史
 書名の大河内は上野(群馬県)高崎藩の藩主の姓で、最後の藩主であった輝声(てるな・1847-1882)を指す。
 輝声は明治維新で廃藩置県が行われた後は浅草今戸町に邸宅を構えて文人墨客と遊ぶ悠々自適の生活を送っていた。明治10年11月、西南戦争のために赴任が遅れていた清の駐日公使一行が東京へ到着すると、当時30歳だった彼は芝増上寺月界院に置かれた公使館へ毎日のように赴き、彼等と漢文で筆談を交わす。これはその筆談の記録である。
 公使館で彼の筆談の相手となったのは、堅実で綿密な性格を持ち、平素は穏やかだが時に毅然とした態度を見せる若き参賛(書記官)、黄遵憲だった。(今月19日欄『日本雑事詩』参照。)

(平凡社 1981年2月初版第4刷)

 ▲29日欄に『環球時報』『人民日報』の虚報について私が書いた内容について、林思雲氏からご感想をいただいた。氏のご許可をいただいて関連部分を日本語訳のうえ掲載させていただく。
 “中国人の論法について、おっしゃるとおりだと思います。感情まかせに物を言う部分がかなり大きい。ニュートン力学が確立した、観察と推論に基づく思考様式は、中国の歴史においては出現しませんでした。近代以降の中国はさまざまな方面で近代化を果たしていますが、思考様式においては依然として伝統的な状態のままです。/中国式思考様式の特徴は道徳論であることです。いかなる場合でも、第一に道徳的な基準で価値判断されます。真実や真理は道徳に従属します。中国の道徳でもっとも重要とされるのは“我々”の都合の悪いことは言わないことです。ある人が孔子に、羊を盗んだ自分の父親を告発するのは道徳的かとたずねました。孔子は道徳的ではないと答えました。子は父をかばって父の過ちを隠す、それが道徳的であると。/孔子のこの考えかたは、今日の中国でも随所に見られます。たとえば、もし中国人が外国でなにか悪事をはたらいたとします。それをほかの中国人が指摘したり批判したりすれば道徳的な見地による非難を受けるでしょう。批判者の言いかたはこうです。「中国人ならどうして同胞をあげつらうのか。おまえはそれでも中国人か。」/日本をめぐる問題でもそうです。中国人の思考様式に従えば日本は“我々”の仇敵なのだから、日本人のイメージを損ねるならば、それが嘘であっても国のためになるから良いということになるのです。嘘でも“善意の嘘”だから良いのです。反対に、この種の“愛国のための善意の嘘”を嘘であると指摘するのは、中国の地位とイメージを傷つけるから、“悪意の真実”であり、その人は売国奴、漢奸と見なされます。/中国では“悪意の真実”より“善意の嘘”のほうが選ばれるのです。これが、『人民日報』やその他のメディアで日本についての誤まった報道が氾濫しているにもかかわらず、指摘したり批判する人間がいない理由のひとつです。/鄭若思氏をはじめとする人々がインターネットでこの“善意の嘘”を指摘批判しましたが、このような“悪意の真実”は中国の公式なメディアでは発表できません(国内、国外を問わず)。/私が現在もっとも望んでいることは、中国人が伝統的な思考様式を改めることです”


ヴィンセント・ロブロット著 浜野保樹・櫻井英里子訳 『映画監督スタンリー・キューブリック』 

2005年01月31日 | 伝記
 カーク・ダグラス曰く、「(キューブリックは)才能のあるクソッタレだ」。
 ロジャー・カラス曰く、「(キューブリックは)天才」。「威張らない人だが、そこにいる誰より二〇分も早く問題を理解できたり、興味のあることに驚異的な記憶力を発揮できたりする」。「基本的に秘密主義で人前に出たがらない」。
 スタンリー・キューブリック曰く、「新しいものについていったり、業界紙を読んだりするのは好きだが、読むからいいのであって、行く先々で聞かされたりたくはない。仕事は仕事としてやって、あとの悪意ある低俗なことからは離れているのがいい」。
 著者曰く、「彼はイギリスの自宅から出なかったものの、孤立状態で活動しているわけではなかった。ひたむきな知的欲求を満たすため、情報を収集することをやめなかった」。「ハリウッドでもロンドンでもニューヨークでも、彼は社交界や芸術家の集まりに参加しなかった。それにもかかわらず、外界との接触を保っていた。外界の方から彼に接触してきた。電話はコミュニケーションのための重要な道具となった。『ニューヨーク・タイムズ』紙は毎日送られてきた。短波ラジオによってアメリカや、他の地域のことも知ることができた。(略)目的ある孤立主義で私生活や仕事を仕切った」。

(晶文社 2004年9月)

 ▲29日の『環球時報』『人民日報』に関する拙文に関してまた別の方からご意見をいただいた。28日に書いた中村修二『21世紀の絶対温度 科学者の眼から見た現代の病巣の構図』に関する部分で、「自然法則の階層性」をお教え下さったと記した方である。
 今回は、引用したキッシンジャーの発言内容について。
 “ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』の初版が出版されたのは1687年ですが、当時これを読んで理解できたのは英国内に10人いたかどうか甚だ疑問です。勿論、論敵ライプニッツは理解していたでしょうが、庶民やインテリも理解は出来なかったしょう。ニュートンが死んで暫くしても事情は変わらなかったのはヴォルテールの『哲学書簡』を読めば分かります。ニュートンの成果がインテリのものとなるのはずっと後だと思います”
 ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』をはじめ、著作をラテン語で書いたからである。ニュートン力学が一般に知られ、理解されるようになるのはニュートンの死後であり、デザギュリエが1712年から英国で始めた実験科学の連続巡回講座や、フランスにおけるヴォルテールの紹介活動によるところが大きいらしい。(これも、以前この方に教えて頂いたことだったのだが、忘れていた。鈍な話だ。)


諸星清佳 『沈黙の国の記者 劉賓雁と中国共産党』 

2005年01月29日 | 東洋史
 この伝記研究によって、2002年10月2日欄『第二種の忠誠』『中国の幻想と現実』および2003年1月3日『劉賓雁自伝』を通じて得たこの人物に対する私の理解は、事実に照らして正しかったことがわかった。
 諸星氏は、反右派闘争および文化大革命において厳しい迫害をうけたあとの劉賓雁氏の特質を以下の二つとしている。
 1.社会を人的要素に還元せず、構造的に対象化して描く。
 2.基本的人権の尊重を基軸に据えた人道主義。
 劉賓雁氏は、このたびの趙紫陽死去に際して、「(趙紫陽は)非常に良質の政治家であり、政治的指導者だった」「実に開明的な人物だった」と評して、だからその死を聞いて悲哀を感じたと、インタビューで述べている(「『多維時報』専訪劉賓雁:趙紫陽的政治智慧和品徳――幾個印象深刻的事例」『多維網』インターネットサイト、2005年1月22日付け掲載)。評価の理由があくまで趙紫陽が為した政治家もしくは一国の指導者としての業績によるもので、“真の民主主義者”だったからなどという証拠のない主観的な思い込みではないところが、いかにもこの人らしい。

(すずさわ書房 1992年12月)

 ▲『環球時報』1月26日で、アウシュビッツ解放60周年に関するいかなる報道も日本のメディアでは全くなされなかったという内容の記事が出た(張莉霞「奥斯威辛解放60周年 日本媒体不報道紀念活動」)。さらに翌日、『環球時報』のいわば親会社に属する『人民日報』で翌27日、この記事をもとに、「政府は何のコメントも発表せず、民間ではいかなる記念行事も行われなかった。メディアには関連する報道や論評が皆無である。ドイツ人が歴史を直視しているのに比べ日本の加害者国の指導者たちの態度の対照的なありさまを見よ」云々という趣旨の論説が出た(李学江「真誠反省与百般掩飾」)。
 このあまりの嘘に、心ある中国人は怒っている。たとえば在日中国知識人の鄭若思氏は、さきほど名の出た『多維網』をはじめとするインターネット空間において、『環球時報』の記事が出た直後にその虚偽を、日本の報道各社の関連報道の実例を列挙したうえで、厳しく糾弾している(「無恥的《環球時報》、造謡太離譜!」。ほか『日本華網』2005年1月28日などに掲載)。
 これはシンガポールの新聞だが、華人系新聞『連合早報』の日本報道のデタラメさ加減は定評があるし(山本秀也『本当の中国を知っていますか』によれば、同紙の日本についての嘘報道は、市場として規模の限界があるシンガポールに見切りをつけて中国大陸の読者獲得を狙う同紙の販売戦略らしい)、聞くところによれば『環球時報』は発行部数300万部の堂々たる大新聞だそうである。その大新聞がよくもこんな嘘八百を平気で吐けるものだと思う。曹長青氏が『中国民主活動家チベットを語る』(日中出版 1999年10月)で「中国共産党の言うことは徹頭徹尾嘘である」と激怒しているのも無理はない。
 しかし少なくとも一部の中国人の思考方式には、愛国のための嘘ならついても罪にはならないという考え方があるそうだ。“正義”のためなら何をしてもかまわない、というより正義のためならすべて正しいということらしい。嘘が嘘でなくなるということである。
 この論理は、反右派闘争開始時の『中国青年報』1957年6月10日論説「要有積極的批判、也要有正確的反批判」の内容を思い出させる。あるいは同じく『中国青年報』の1957年9月28日「人民需要怎様的記者?」のそれといってもよい。何が「正確(正しい)」で何か「正確」でないかは、党の政治的必要性(あるいは利益如何)で決まるのである。ここには客観的な(すなわち事実に基づく)基準は存在しない。
 そしてこれは、事実であるかないかさえ、党の――というより人間の――主観的な判断で決まるということでもある。
 ここで私は、エドワード・W・サイードが『オリエンタリズム』(上下、平凡社、1993年6月)でついに反駁できなかった、キッシンジャーの西洋社会と非西洋社会の決定的な違いに関する意見を、思い出さざるをえない(2004年7月29日欄参照)。
 「(先進国すなわち西洋は)現実世界が観察者にとってあくまでも外在的なものであり、知識とはデータの記録および分類――それらは正確であればあるほどよい――から成り立っているという考え方にしっかりと依拠している」 (上巻 113頁)
 「早期にニュートン学説の洗礼を受け損なった文化は、現実世界がほぼ完全に観察者の主観の内側に(原文傍線)あるとする本質的にニュートン学説前の世界観を、今に至るもなお持ち続けている」 (同 114頁)
 今回の『環球時報』および『人民日報』の虚報さわぎも、記事を書いた本人はそれを正しい行いと考えているのはもちろん、書いた内容は本当だと考えているのかもしれない。自分がそう信じるがゆえに。
 中国に“賽先生”(science・科学)はついに来なかったのか。 

皆川亮二 『D-LIVE!!』 9 

2005年01月28日 | コミック
 まるごと1巻を使ったASEとキマイラの全面対決編、敵も味方もオールスター・キャストで、存分に楽しみました。
 キャラクターとしてかぶっている格闘技のプロ、ジェームズ波戸と亜取アキラ二人をともに登場させた時点で、作者がこの二人の持ち味を相殺させずにどう動かすかと期待していたのだが(もし両者が闘ったらどちらのほうが強いのかなどというかなり低級な興味もふくめて・・・)、これは予想通りに基本的には二つの場所で別々に活躍させたそのうえで勘違いによる一瞬のニアミスという読者サービスの見せ場もちゃんと作ってあるところは憎い!

(小学館 2005年2月)

 ▲今年1月16日中村修二『21世紀の絶対温度 科学者の眼から見た現代の病巣の構図』の内容について、いつもご教示をいただく方からこんなご意見をいただいた。ご許可をいただいて、以下に一部転載する。
 “彼の推論で欠陥があるのは「自然法則の階層性」を意識していないことだと思います。ミクロの世界を支配する量子力学は半導体を理解するうえで必須の体系ではありますが、地上の運動を理解するにはニュートンの力学でなければなりません。もっと大きいスケールでは相対論のお世話になります。/DNAで理解される生命や遺伝の知識でそのまま人間社会を理解しようとするのは、この階層性を無視した暴論です。人種によって「優良民族」とそうでない民族を選別したヒットラーもこのような誤った仮説を採用したのですね”
 「自然法則の階層性」という概念のおかげで、私が中村氏の意見について感じていたことが明確になった。自然の階層的な構造を反映して、自然のそれぞれの階層に固有な法則性を追求するために、化学・生物学・地学などの個別科学が分化して存在するということである。この概念は、科学者にとっては初歩中の初歩に属する常識らしい。
 中村氏は、ご自分でも認めている通り、ご自分の専門分野について系統的な学問研究をやった人ではないのだろう。いわば現場の技術者で、だからこんな専門家としての常識に欠けた、そのおかしさが素人でもわかるような発言を平気でするのではないかと思える。
 そこで思うのだが、ポストモダンの自然科学もどきの言説のおかしさも、つまりはこの「自然法則の階層性」を無視しているからではなかろうか。文系(つまり門外漢)の見地からいえば、一つの言葉を本来の意味とアナロジーとしての意味を混同しているからおかしいとまでしか言えない。これはもちろん正しい指摘なのだが、理系(専門家)の眼から見れば、具体的にこういう理由で間違っているということになる。
 さらに思うのだが、中国の一部の知識人の間では「優良民族」「劣等民族」の選別がいまでも大きなイシューであるらしい。自他についてのほか、中国人はいったい優良民族か劣等民族なのかと激しい議論が交わされているのを見たことがある。これもまた「自然法則の階層性」を無視した暴論ということになる。少なくとも19世紀の社会進化論レベルの議論であるのは確かである。キリンの首が長くなったのはキリンが首を長くしたいと願ったからか。

村井章介編 『日本の時代史 10 南北朝の動乱』 

2005年01月28日 | 日本史
 「異形とバサラ」を論じる前に悪党の定義をしてもらいたいと思っていたら、途中でやっと「現代的な悪人ではなく、反体制的な人々をも含む」とあった(第1章「Ⅰ バサラと寄り合いの文化」、107頁、伊藤善良氏執筆)。これだけかと、驚嘆した。
 もっとも第2章が「Ⅱ 悪党と宮たち」(新井隆重氏執筆)で、専論のはずなのだが、ここでもはっきりした定義がなされていない。「並はずれた力と勇気は、鬼神にも等しい畏怖の念をいだかれ、人々から感嘆の意味を込めて〈悪〉と形容されたのである」(第2章、143頁)では定義のうちに入らない。“悪党”の“悪”という言葉の語釈であって“悪党”という言葉全体の解釈ではないからである。今挙げた伊藤氏の定義にあてはめて言い換えれば、前半分だけについての説明でしかない。
 悪党と呼ばれた人々の正体と活動の実例を記した史料は、この第2章でふんだんに紹介されている。しかし筆者はさまざまな実例を次々紹介していくだけで、「悪党とはつまり何であるか」という要約を行わない。たとえば伊藤氏の定義の後半、「反体制的な人々」の前か後に、筆者が実例に共通すると見なす属性(たとえば職業・身分・経済基盤・地縁・血縁など)を抽出して付け加えればいいだけのはずなのだが、それをしていないから少なくとも私という読者には結局悪党とは何なのか、よくわからないのである。

(吉川弘文館 2003年3月)

ポール・クローデル著 奈良道子訳 『孤独な帝国 日本の1920年代』

2005年01月27日 | 日本史
 仕事と翻訳に紛れて24日が返却期日であるのを忘れていた! 
 図書館から電話がかかってきた! すみません! 今すぐ返しに行きます! 感想はまたの機会に! 著者は1921年から27年にかけての駐日フランス大使! カミーユ・クローデルの弟!

(1999年7月 草思社) 

高橋ツトム 『スカイハイ 新章』 4 

2005年01月27日 | コミック
 これで終わりのようなことが帯には書いてある。
 最後の最後に、単なる狂言回し(観察者)のはずのイズコが、人を呪い殺した死者は地獄へ堕ちるというルールを破って転生させてしまう。登場人物が作品世界を成り立たせている設定に怒りを抱いて作品そのものを破壊してしまうのである。
 だが巻末の著者の言葉に、まだまだ描き続けるとある。続けて欲しい。

(集英社 2005年1月)

大和和紀 『ベビーシッター・ギン!』 6-8 

2005年01月26日 | コミック
 ギンは魔法が使えると自称する。メリー・ポピンズなら当然ではある。しかし最初は催眠術ぐらいのものだったのが、だんだん本当の魔法使いになってきた。タイムスリップまでするようになった。路線が変わっている。
 この漫画は、ギンはいわば狂言回しで、ギンが働きに行く先の夫婦あるいは一家が本当の主人公である。しかし子育てに苦労している家庭という大前提があるので、夫婦の年齢をはじめ、最初から可能なバリエーションに限界があった。作品舞台の設定が狭いと、長く続ける場合、途中で基礎の設定を変えないと行き詰まってしまう。高橋ツトム氏の『スカイハイ』が『スカイハイ 新章』へと変化したように(2004年4月19日欄『スカイハイ 新章 2』)。

(講談社 2003年4月) 
(講談社 2004年1月)
(講談社 2004年11月)


 ▲趙紫陽氏が生前二回にわたって共産党に党脱退の申請を行っていたという報道を見た。これが事実だとすれば、私の19日の発言のうち「“真正の民主主義者”なら共産党に留まっていたりするまい」のくだりは、取り消さねばならない。
 しかし北京在住の劉宗正という人が、「なぜ国民に向かって『私は共産党を脱退する』と公に発表しなかったのか」とコメントしている(「喊出推翻共産暴政――致趙紫陽家人信」、『曹長青網站』2005年1月25日掲載)。それが不可能な境遇だったのかもしれない。しかし林思雲氏の「趙紫陽は中国共産党内の民主派か」と曹長青氏の「ミロヴァン・ジラスと趙紫陽の差」を訳し終えたあとでは、本当に己の声を外部へ伝える術はまったく無かったのか、無かったのは何が何でもそうするという意思のほうではなかったのかと、どうしても思ってしまう。

大和和紀 『ベビーシッター・ギン!』 4・5 

2005年01月25日 | コミック
 第5巻でギンが喧嘩相手の家の子と付き合うなと我が子に強制する親に向かって放つ、「バカなことをしてるのはあなたがたです/大人たちの勝手で愚かな争いが幼い心と愛を踏みにじったのです」という科白は、原哲夫『花の慶次』(集英社)で、前田慶次郎がおふうを誘拐しようとした風魔の頭を愛用の鉄煙管でコンコン叩きながら言う、「豊臣と北条が喧嘩するのはいいさ、大人同士のことだ/しかし大人の喧嘩に子供をダシに使うかねえ」と、同じくらい印象深い。「ぷち」(風魔の額が割れる音)。
 子を持つ親としてこんなバカな大人になってはいけないと、あらためて自戒させられる。

(講談社 2002年2月) 
(講談社 2002年9月)

▲一昨日昨日と「東瀛小評」にと林思雲氏の文章を翻訳し、今日明日は「曹長青評論邦訳集」へと曹氏の文章を訳す。強行軍なので頭がカスカスである。無駄話も出ない。