書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

須賀敦子 「書評・最新書評 : 戦争の悲しみ バオ・ニン著」

2017年12月05日 | 文学
 http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072803810.html

 書評された本の表紙の写真にあるように、この日本語訳はベトナム語原書とともに、英訳をテキストに用いている。その比較の過程で、英訳版に「かなり重大な誤訳と省略部分」「ミス」がある事実を、訳者井上氏は末尾の「解説」で報告する。だが氏が証拠としてあげるいくつかの実例を見る私の目には、誤訳やミスどころか、これはなんらかの理由にもとづく意図的な改変なのではないかとさえ思える、いわば“ひどさ”なのであった。
 それはさておき、その井上氏は、このこととともに、英訳本の「下訳」では某日本人女性〔名前が挙げられている〕の、「原作との照合」で東大留学中の某ベトナム人女性〔同上〕の、それぞれ「協力を得た」と、記されている。では氏御本人はこの翻訳において何をなされたのだろうか。

12月6日追記
 氏は、もちろん「解説」を書かれている。それも入念で力の籠もった内容であり、作品の紹介と同時に――言うなればそれの必然として――ベトナムという国家について、目配りとメリハリとのじつに効いた、同国現代史の周到かつ明快な概説ともなっている。

Googleで「対訳」で検索すると・・・

2017年12月05日 | 思考の断片
 Googleで「対訳」で検索すると、まず最初に、

 たいやく 【対訳】
 1. 原文に並べて訳文を示すこと。その訳文。
 2. その語句に対して訳語だけ示すこと。 「―辞書」」

 と出る。 江戸時代の初期の蘭和辞書を見るとおおよそ第2番目の対訳辞書のようなものである。暗記してもオランダ語はマスターどころか上達もしない。基本的に語彙レベルでの条件反射的反応を学ぶのみであるからだ。しかもその対訳が、その語のもつ概念の日本語による定義であるのか、あるいは言い換え的の説明か、またあるいは当時の日本語と日本社会において対応する事や類似する物の単なる対置か、作った本人もよく区別していないだろうと思われる。
 和蘭の辞書も同様で、「湯(スヒモノ)」の対訳がただ「ソップ」だったりする。「生」=「ラーウー」とか(なんだそれは)。たとえば『蛮語箋』(1798) を見ればいい。

「訓読ができる」ことと「漢文が読める」こと

2017年12月05日 | 思考の断片
 「訓読ができる」のと「漢文が読める」のとは異なる。たとえば漢字の語彙や熟語の対応する訓読を機械的に暗記すれば、初見の漢文でも誦み下しはできる。しかし読解できているかどうかとは必ずしも重ならない。これを端的に言えば、訓読法をマスターしていても白文の句読は切れない。つまり読めない。荻生徂徠の現代漢語学習、漢文の中国音での音読推奨の理由のひとつがこれである(訓読は対象言語の読解に非ずという認識)ことを知ったとき、徂徠という人をたいへん尊敬した。

 それで思い出すのは、塞外史の研究者は史料・先行研究の双方の必要上、複数の言語ができなければならないし、またできて当然というところがあって、それを誇りとするのもわかる。だがそれがときとして漢文軽視――あんなものは読む必要はない――となるのは極端へ振れすぎではないかと思えることだ。
 従来の漢文史料一辺倒かつ金科玉条扱いの反動としてそうなったのであろう。どうせ中国側の都合で歪曲したろくなことしか書いてないという主張は、私としては別の角度から首肯しないでもない。だがそれは別として、読まないで、あるいは読めないで、「読む必要のない内容である」と結論するのは非論理的ではないか。

 しかしながら、こういった思案は、最初から読もうとしない、あるいは読もうとしても白文の句読が切れない、つまり読めない漢文資料を「読む必要はない」と断じる時勢に乗る塞外史家や、もともと地方志の税の部分を判じ読み或いは数字を拾い読みしてあとは舶来の理論体系もしくは多少モディファイした先行研究の結論を取捨選択適用するのが主たる作業のある種の中国社会経済史家には、これは迂遠はおろか無用の事柄であろう。とくに後者にとってはテクストはいわばあらかじめ定まっている自説を開陳するための材料、ダシにすぎない。訓読をかたちのうえで止めただけで精神はこれまでどおりに訓読、あるいは判じ読み・拾い読みの道を行かれればよいと思う。

擬人法と疑物法

2017年12月05日 | 人文科学
 西洋のレトリックに擬人法があるが、擬物法はさほど例がなく、日本語においてより多用され、後者のかなり特徴的で独自の修辞法として見なせると、このあいだ何かで読んだ憶えがあるのだが、書名を思い出せない。当座の宿題とする。
 それに関して、べつに思い出せるのは、韓愈「送孟東野序」 の「人聲之精者為言;文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。 其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。夔弗能以文辭鳴,又自假於韶以鳴。夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於詩書六藝,皆鳴之善者也。」のくだりである。これは擬物法である。漢語にはともかくも有るわけだ。

「まなざし」という比喩

2017年12月05日 | 思考の断片
 「まなざし」という言葉を比喩として使っている社会史の著作を見る。「まなざし」というのは学問的にはあまり使わない語彙であろう。さらには比喩(この場合隠喩)であり、学問的著作では基本的に比喩は避けられる。比喩は修辞であって、学問が旨とする論理的な思考や表現の精確さと厳密さとを損なうからである(“死んだ隠喩”をのぞく)。この著者は、みずからがいま新たな比喩を使っていることを自覚しているかどうか。