書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

小尾郊一 『中国文学に現れた自然と自然観 中世文学を中心として』

2017年07月29日 | 文学
 漢代の賦に現れた自然描写は、賦自身が、おおむね作者の学力を誇示するために作られたため、奇字妙句の羅列に終り、真の自然美を描写することからは、かえって遠ざかってしまい、机上の空想の作、文字の遊戯に終ってしまった。 (「第一章第三節 賦と自然」本書233頁)

 要するに詠物詩は、ある一つの事物の形態について、考えられるだけのことを書くという、作者の思考力の限界を示すことに興味があると言えよう。つまり眼前の感動を受けた姿のみを描くのではない。 (同、247頁)

 客観的事象を専一にとらえるようになっても、いまだオレはオレは状態は完全には脱しきっていないということである。
 なお続く以下の指摘が個人的には非常に面白い。

 これはあたかも、六朝の義疏学は、ある一つの事についての証明に、考えられるだけのことを考え、議論のありたけを尽くすのとよく似ている。 (同、247頁)

(岩波書店 1962年11月)

網祐次 『中国中世文学研究 南斉永明時代を中心として』

2017年07月29日 | 文学
 詩は元来、志を言ふ(尚書舜典)もので、直接に之を述べることもあるが、寧ろ外物に託する場合が多い。然るに一方では、志ならぬ一物を対象とし、それを中心として述べて一篇を成す詩も、次第に現はれた。 (「補篇第二章 詠物詩の成立」本書449頁。原文旧漢字)

 これはつまり、なんでもオレはオレのオレにオレをのいわば自己中状態から、虚心に世界を眺め坦懐に耳を傾けることができる状態へ進境したということかな?

(新樹社 1960年6月)

許槤評選 黎經浩箋注 『六朝文絜箋注』―維基文庫

2017年07月25日 | 文学
 六朝文絜箋注 - 维基文库

 箋注とは要は注釈のことだが、その注釈を見なくてもそのまま原文を読めば文意は通じる個所が大部分を占めると思える。そもそもこれは本文読解の助けになる為に付けてあるわけではないようだ。たんに注釈者のセンスがよくないか、あるいは読者のことなど考えない、「俺はこれだけ物を知っている」という自己顕示のためということが考えられるが、もうひとつ、denotationではなくconnotationを重視した註解かもしれない。あるいはassosiation。これは、やや好意的に過ぎる解釈かもしれないものの、畢竟は当たらずといえども遠からずのところかもしれない。ふつうに考えると、語釈以外、無意味無駄と思える注釈が異常に多い。こちらの頭が現代人だからその意義や必要性が解らぬのではないかと、自分の足下から疑っている。

朱德煕著 杉村博文/木村英樹訳 『文法講義』 

2017年07月25日 | 人文科学
 同書の「7.8. 動詞“是”を中心に構成された述語」の1 に、「主語と述語は,意味上,類とその成員の関係(包摂関係)にある」(135頁)とあるのだが、“主語”も“述語”も西洋語の文法のそれを借りてきた概念であるところへ、その上にそれらの“意味上”と言われても、漢語について実のある何事も言っていないのではないか。“類”と“成員”すら彼我では元来ことなろう。“是”構文は主語述語の同定関係を示す構文、是は英語のbe動詞のようなもの、つまり繋辞と、我を彼のほう引き寄せて理解あるいは再定義したというところはないか。動詞という品詞の概念もまた。概念を再定義し、それをもって国民を教育し、国民(つまり現代漢語の話者)はそういういうものだと思って自らの話す言語をとらえるようになるという流れ。

(白帝社 1995年10月)

[『毛沢東選集』 第三巻 「延安の文学・芸術座談会における講話(文芸講話)(1942.5月) ]再考

2017年07月25日 | 現代史
 2017年03月12日「『毛沢東選集』 第三巻 「延安の文学・芸術座談会における講話(文芸講話)(1942.5月)」

 抽象的な思考を否定した後の『真(の)』とは何如なる意味を持つのであろう。内包について考えることを禁じているのであるから、外延すなわち具体的な個々の例をそれぞれそのまま『真』と認識し、それらをそのまま、すべてを真似るしかない。

 と、4か月前に書いた。しかし、昨日の門脇廣文氏の『文心雕龍の研究』の指摘「その現象世界全体の本質を『道=天理』、個別の物や事の本質としての『理』と、ふたつに分ける」という見方に啓発された。毛沢東も同じように考えたかもしれない。かれは「道」あるいは「天理」を否定したが、個別の事象の「理」(内包)は否定しなかったと。

門脇廣文 『文心雕龍の研究』

2017年07月24日 | 文学
 出版社による紹介

 「体―用」の関係を「本質―現象」のそれとする見立ては魅力的である。そしてさらに、その現象世界全体の本質を「道=天理」、個別の物や事の本質としての「理」と、ふたつに分ける。それらはともに、経書と緯書の内容であり、文章においては論理的側面すなわち実質的内容として現れる。すなわち「義」である。「情」「気」、また形式に関連する「言」「辞」「喩」「文(采)」といった言葉もしくは概念と対置される。もしくはときにそれらすべてを包摂した上位の概念として用いられる。

(創文社 2005年3月)

門脇廣文 『文心雕龍の研究』

2017年07月24日 | 文学
 出版社による紹介

 「体―用」の関係を「本質―現象」のそれとする見立ては魅力的である。そしてさらに、その現象世界全体の本質を「道=天理」、個別の物や事の本質としての「理」と、ふたつに分ける。それらはともに、経書と緯書の内容であり、文章においては論理的側面すなわち実質的内容として現れる。すなわち「義」である。「情」「気」、また形式に関連する「言」「辞」「喩」「文(采)」といった言葉もしくは概念と対置される。もしくはときにそれらすべてを包摂した上位の概念として用いられる。

(創文社 2005年3月)

James F. Voss, David N. Perkins, Judith W., "Informal Reasoning and Education"

2017年07月24日 | 人文科学
 informal reasoningおよびlogicを、formal logicとは別個のもの(優劣や正誤の関係のない)と位置づけようとしたのなら、必ずしも成功したとは言いがたい。たとえば前者における三段論法は、前提がeveryday knowledgeを含んでおり、よって正確(formal logicから見て)ではない。また推論は必ずしも論理的に(formal logicから見て)正しいとはいえず、ゆえに出てくる結論も偽かまたは真でも偽でもない。しかしそれら全てに拘わらずinformal reasoningでは結論のもっともらしさが優先するというのでは。前提の正確さ、あるいは前提そのものがあまり重要ではない、そして理屈は前提とさして関係がなくてもかまわない、そして理屈の正しさも重要性は第二義である、結論のもっともらしさこそが最重要(特に他者を説得する/他者が説得される面から言って)であるというのならわかる。

(Hillsdale, N.J.: L. Erlbaum Associates, April 1991)

Informal Reasoning definition | Psychology Glossary

2017年07月24日 | 人文科学
 https://www.alleydog.com/glossary/definition.php?term=Informal%20Reasoning#.WXQxu5TDwS8.twitter

  Informal reasoning refers to the use of logical thought, and the principles of logic, outside of a formal setting. Basically, informal logic uses the application of everyday knowledge, education and thinking skills to analyze and evaluate information.

 これはinformal reasoningについての、簡にして要を得た定義である。とくにeveryday knowledgeの個所が。everyday knowledgeとは必ずしも検証を経ていない風聞に基づく、あるいは個人的な見聞から得られた、はたしてそれを一般化できるかどうかはわからない経験や知識であると。