漢代の賦に現れた自然描写は、賦自身が、おおむね作者の学力を誇示するために作られたため、奇字妙句の羅列に終り、真の自然美を描写することからは、かえって遠ざかってしまい、机上の空想の作、文字の遊戯に終ってしまった。 (「第一章第三節 賦と自然」本書233頁)
要するに詠物詩は、ある一つの事物の形態について、考えられるだけのことを書くという、作者の思考力の限界を示すことに興味があると言えよう。つまり眼前の感動を受けた姿のみを描くのではない。 (同、247頁)
客観的事象を専一にとらえるようになっても、いまだオレはオレは状態は完全には脱しきっていないということである。
なお続く以下の指摘が個人的には非常に面白い。
これはあたかも、六朝の義疏学は、ある一つの事についての証明に、考えられるだけのことを考え、議論のありたけを尽くすのとよく似ている。 (同、247頁)
(岩波書店 1962年11月)
要するに詠物詩は、ある一つの事物の形態について、考えられるだけのことを書くという、作者の思考力の限界を示すことに興味があると言えよう。つまり眼前の感動を受けた姿のみを描くのではない。 (同、247頁)
客観的事象を専一にとらえるようになっても、いまだオレはオレは状態は完全には脱しきっていないということである。
なお続く以下の指摘が個人的には非常に面白い。
これはあたかも、六朝の義疏学は、ある一つの事についての証明に、考えられるだけのことを考え、議論のありたけを尽くすのとよく似ている。 (同、247頁)
(岩波書店 1962年11月)