書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

石毛忠 「南北朝時代における天の思想 『梅松論』をめぐって」

2014年09月24日 | 日本史
 『日本思想史研究』1、1967年3月、同誌1-22頁。

 要するに『梅松論』においては、「天下」思想の立場から「天道」によって特定の為政者としての院(天皇)を批判することがあっても、王威の尊厳を否定しようとする意図は認めらめられず、「王土」思想の立場から臣下(武家)の「勅命」への服従を「天命」として重視しているのである。 (「三 『梅松論』における天の思想」13頁)

 そしてその天命の正統性を位置づけるのは「天照大神ノ御計」(18頁)であり、

 皇位系統はすべて「天照大神ノ御計」によるものであり、それに裏打された「天命」が本来「倫理」的正統性をも保証するものであるから、実は余計の観念を介さなくても、「シカルベキ天命」される〔ママ〕。 (18頁)

 という。
 では、南朝北朝両方ともに?

岡本弘道 「明朝における朝貢国琉球の位置附けとその変化 一四・一五世紀を中心に」

2014年09月24日 | 東洋史
 『東洋史研究』57-4、1999年3月、同誌587-621頁

 琉球の興隆と繁栄は、当時猖獗を極める倭寇対策の一環としての明による琉球の招撫=朝貢・冊封国化、そして強力な主権勢力が存在しない当時の東アジア海域において、倭寇を含めた海商の「受け皿」となる海上交易勢力を育てようとした、明の政略の結果であって、故に、倭寇が沈静化すると明の琉球に対する優遇政策も後退し、時間的にずれはあるものの、琉球は徐々に衰退へと向かうという議論。

高令印/楽愛国 『王廷相評伝』

2014年09月24日 | 伝記
 原題:高令印/乐爱国《王廷相评传》。

 再読
 王廷相が“理”を“勢”(時勢)と同義で使っている場合がある例を指摘。「第十章 历史观 二 理势必至」。

(南京大学出版社 1998年12月)

余英時 「戴東原與伊藤仁齋」

2014年09月23日 | 東洋史
 『論戴震與章學誠 清代中期學術思想研究』(台北、東大圖書公司 1996年11月)所収、「外篇」同書231-245頁。

 戴と伊藤、両者の学説には直接関係はなく、中国内外における儒教思想史の流れの中での偶然の同方向への発展と見る。さらに伊藤仁斎の説は明の呉廷翰の影響を受けたものとする。
 この仁斎の気一元論が呉廷翰から来ているという説は、君山狩野直喜が「余は之を信じない。仁齋の創見をなすを至當と考へる」としたところのものである。狩野直喜『中国哲学史』(岩波書店 1953年12月)「第六編 清の學術と思想 第三章 乾嘉時代の漢学」同書575頁。

坂出祥伸 「方以智の思想 質測と通幾をめぐって」

2014年09月23日 | 東洋史
 坂出祥伸『中国思想研究 醫薬養生・科學思想篇』(關西大学出版部 1999年9月)所収、同書352-418頁。また「附 方以智哲學の概観」同書419-425頁。

 「天地の間に盈つるは皆物なり」で始まる方以智の『物理小識』を、梅園は読んだことがあるのかどうか。
 なお、坂出氏は、方以智は、たしかに懐疑主義的・主知義的であったが、彼にとって理とは最終的には不可知な存在であり、心で感得する(通幾)ほかはなく、人知による観察と計測(質測)には限界があると考えていたとする。「質測に詳かにして通幾に拙なり」ほか『物理小識』序文にみえる西学評価の言葉はその表れであると。

三枝博音 『梅園哲学入門』

2014年09月23日 | 日本史
 前エントリーを承けて。

 そんななか、近代科学の基礎的な概念としての物質としての「物」の概念を明瞭にし、以後の日本人のために自然科学受容の際に必要な抽象的思考法を準備したのが三浦梅園であったと、筆者はその思想と著作の意義を評価する。 「三 日本の科学を育てた人としての梅園」、とくに「二 自然科学の発達しなかつた第一の理由」と「四 科学的思惟の創成」。

(第一書房 1943年6月)

周程 「福沢諭吉の科学概念 "窮理学""物理学""数理学"を中心にして」

2014年09月23日 | 日本史
 『福澤諭吉年鑑』27、2000年12月、同書93-111頁。
 再読

 「2 サイエンスに充てられた訳語」より抜き書き。

 一見したところ,朱子の窮理は,科学上の探究を示唆しているようにみえるが,実際はそうではない.それというのも,程頤と朱熹において,窮理の対象には,自然の“物”だけではなく,社会の“事”も,さらに著書も,区別なく含まれていたからである.つまり,朱子が追究した“知”ないし“理”は,自然の“物理”ばかりではなく,社会の“倫理”をも含んでいたのである.しかも,彼らにとっての窮理の究極的目的は,人間の倫理を認識し“天下を平らにする”ところにあった.

 だから、

 程朱の窮理学ないし理学は,その源流にしろ,内容にしろ,アリストテレス以来の自然学(physica),あるいは自然哲学(natural philosophy)と異なっている.だが,両者の間に何らの類似点もないとまでは言えない.少なくとも宇宙の万物に即して,その“理”を明かにする点において,朱子の“格物窮理”は西洋近代合理主義思想とある種の類似性を持っている.

 そして、

 恐らくこういった理由から,17世紀半ば向井玄松と沢野忠庵が西洋の自然(哲)学を表現しようとした時,“窮理”という言葉を借用し,後にこの使い方が本木良永,司馬江漢,杉田玄白,帆足万里,佐久間象山などの蘭学者らによって受け継がれたのであろう.

 だが、

 ただし,蘭学者においては,程朱の窮理の対象としての“事”,“物”は客観的な自然物に即するという方向に転回され,窮理は実証性を伴って自然物を探究し,さらに自然物の理(法則)を追究する意味に変化していたことが確認される.即ち,蘭学者が用いていた窮理学の意味は次第に変容して,窮物理学,物理学,理学を指すようになっていたのである.

 そして前回引用した、「むすび」での福澤の科学理解について。

 “科学”が science の訳語に転用され,日本の学界で使用され始めたのは,1870年代末頃のことであり,民衆の間にほぼ定着したのは20世紀に入ってのちのことであった.当時,専門化されつつあったnatural philosophy, natural science の訳語としてよく使われた用語は,それぞれ多様な含意を持つ“窮理学”,“物理学”,“理学”といった言葉であった.まさに,この時期に,福沢が“窮理学”,“物理学”を用いて自然科学の中身を表現していたのである.福沢が幕末・明治初期に用いていた“窮理学”と,明治十年代以降使用した“物理学”は, natural philosophy, natural science などに対応する訳語であった.両語に込められたニュアンスは完全に同じとは言えないが, “窮理学”も“物理学”も,みな現在の物理学の意味とは異なり,もっと広く経験的・実証的自然の探究,即ち物理学を中心とする自然諸科学を指し示す用語であった.晩年用いられた“数理学”は,彼の思想の脈絡から見れば,数学や統計学などの数理科学と,物理学を中核にする数学的自然科学の総称と解してよい.

 となる。

張西平 「16-18世紀西学在東亜的伝播与互動 以天主教中文文献的考察為中心」

2014年09月22日 | 東洋史
 原題:张西平「16-18世纪西学在东亚的传播与互动 以天主教中文文献的考察为中心」(鈴木貞美/劉建輝編『東アジアにおける近代諸概念の成立 = 近代東亜諸概念的成立 』国際日本文化研究センター2012/3)所収、同書323-355頁

 書誌学的研究。

本山幸彦 『明治思想の形成』

2014年09月22日 | 日本史
 後期水戸学についての論考(「第一章 明治維新と尊皇攘夷思想 後期水戸学を中心に」)など、“基本”とすべき内容かと。

(福村出版 1969年3月)

矢島祐利 『アラビア科学史序説』

2014年09月20日 | 自然科学
 アラビア科学には、シリア系キリスト教徒を通じてだけでなく、ペルシアからもギリシア科学文献は翻訳されて入ってきていた。ペルシアはササン朝の時すでにギリシア科学を受容していたからである。のみならず、インド科学もペルシアからイスラーム圏へと伝わった(「付録Ⅱ イスラム科学の発展過程の一考察」中「イスラム科学におけるペルシアの役割」)。
 またアリストテレスが真空の存在を否定したのにたいし、アブル・バカラート(12世紀)は、アリストテレスの自然学を金科玉条とすることなく、それに反駁し、真空の存在を肯定した(「付録Ⅴ イスラムにおけるアリストテレス研究」)。

(岩波書店 1977年3月)