「この文献史料を先行研究者の誰某は斯く斯くと読むが私はそうは思わなくて然々と読む」という、中国文学あるいは中国哲学に分類される、ある論文を読んだ。それは、もともと両方の読み方ができるのか、彼方が間違っていて此方が正しいのか、それとも自身が前人未踏の新機軸をうち出しているのか。それすらわからない。ただ信念だけが吐露されている。私にはテクスト軽視も甚だしいと思える。しかしこれで良い分野らしい。筆者は高名な研究者である。
ただ島田虔次先生ならどうご覧になるだろうとは畑違いにして素人ながら個人的に思う。吉川幸次郎・小川環樹の両先生についても。
素人としてさらに騎虎の勢いで言わせてもらうとすれば、これは論文ではなく、見事なほどの情意文である。自身の対象に対する内在的な理解(と主張するもの)を以て論拠とする以外、論文としての装いも施されてない。そのことになんの不都合も感じてはいないらしいとはそのことについて何の釈明もないところから察した。いかにも人文科学らしく、情意文を論文と称ぶ世界らしい。あるいはすこしく客観性をともなう主観唯心論(文)か。
ただ島田虔次先生ならどうご覧になるだろうとは畑違いにして素人ながら個人的に思う。吉川幸次郎・小川環樹の両先生についても。
素人としてさらに騎虎の勢いで言わせてもらうとすれば、これは論文ではなく、見事なほどの情意文である。自身の対象に対する内在的な理解(と主張するもの)を以て論拠とする以外、論文としての装いも施されてない。そのことになんの不都合も感じてはいないらしいとはそのことについて何の釈明もないところから察した。いかにも人文科学らしく、情意文を論文と称ぶ世界らしい。あるいはすこしく客観性をともなう主観唯心論(文)か。