(1)松川節「モンゴル国における契丹文字資料と研究状況(1)」(同書101-107頁)によって、契丹大字の解読が徐々に進んでいることを知る。
(2)森部豊「唐末・五代・宋初の華北東部地域における吐谷渾とソグド系突厥 河北省定州市博物館所蔵の宋代石函の紹介と考察」(同書25-45頁)。後漢時代には既に中国にやってきていたソグド人はアイデンティティを保ったまま、突厥や吐谷渾といった周囲の大集団の生活習慣を取り入れて文化的には同化しつつ、婚姻においては北宋初期に到ってもなお頑固にもとのソグド人時代の範囲で行い(もちろん外部とのそれもあったが)、その関係を保持したと見られる由。では
米芾(1051年生まれ)はどの程度「ソグド人」だったのかと妄想。
(3)井黒忍「金初の外交史料に見るユーラシア東方の国際関係 『大金弔伐録』の検討を中心に」(同書31-45頁)。2005年に杉山正明、2007年に古松崇志の両氏によって、「澶淵体制」なる概念が提出されていたことを知る。「契丹・宋が対等な国家として共存するための仕組みと、この仕組みによってユーラシア東方で維持された複数の国家が共存する国際秩序の双方を包み込んで、『澶淵体制』と呼ぶ」と古松氏は定義づけ、「
澶淵の盟が持つ歴史的意義を的確に説き明かしたのである」。20年前の修士論文で「澶淵の盟」を扱い、ここまで明確ではないにせよ同じ視点から当時の東アジア世界の情況を観ていた私には、とりわけ感慨が深い。少なくともこの時代のこの地域には「中国=唯一の中華」を思想的中心とする冊封体制は、現実にも理念的にも存在していなかった。
(東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 2008/6・2009/6・2010/6)