文中、「自強号」の名の由来をたずねると、どの台湾人も表情が硬くなり、ことばが途切れた、とある。著者はそれ以上踏み込んでおらず、背景の事情を自分で調べてみる。
★「Wikipedia」(日本語)「自強号」項
〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%BC%B7%E5%8F%B7〉
自強とは、1971年に台湾の中華民国国民政府が国際連合を離脱した際のスローガンである、「莊敬自強 處變不驚」(恭しく自らを強め、状況の変化に驚くことなかれ)に由来する。
この旅は1980年に行われた(6月2日~8日)。本書の中でも幾度となく言及があるが、当時の台湾は戦時体制であり、戒厳令下にあった。「大陸反攻」が真剣に――すくなくとも家の外では――、唱えられていた時代である。
著者が見た当時の台湾人の逡巡の理由は、おそらくこのあたりにあろう。
念のため、中国語(北京語)版のほうも見てみる。
★「Wikipedia」(中文)「自強號」項
〈http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%BC%B7%E8%99%9F〉
自強之名得自1971年10月26日,中華民國總統蔣中正面對《聯合國2758號決議》所發表的〈告全國軍民同胞書〉一文中的「莊敬自強,處變不驚」。
項目名が既にそうであるように、本文も繁体字である。つまりこれは、台湾(中華民国)側によるエントリーである。
おもしろいのは英語版で、まだ書きかけらしく英語と北京語がごっちゃになっているのだが、使われている漢字は大陸(中華人民共和国)の簡体字である(だが見出しのアルファベット表記 “Tzu-Chiang Train” はピンインではなく、ウェード・ジャイルズ式)。そして「自強」の由来については、いっさい言及がない。
概してあまり評判の芳しくない Wikipedia だが、その不完全さや不整合を、こうしてある意味、楽しむこともできる。
以上、仕事の合間の息抜きとして。
(角川書店 1985年8月)
付記。
Wikipedia には「宮脇俊三」のエントリーもあった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89)
1926 - 2003。「年譜」欄を眺めていて、この人が中央公論社の編集者として宮崎市定(1901- 1995)と交渉があったことを知る。
1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。以後編集者として活躍し、『中央公論』編集長に就任。当時の国鉄総裁石田禮助に自らインタビューをしたこともある。その後『婦人公論』編集長、開発室長、編集局長、常務取締役などを歴任。「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」など出版史に残る企画にたずさわり、名編集者と謳われる。作家北杜夫を世に出したのも功績の一つである。
「世界の歴史」シリーズでは専門的過ぎて分かりづらい学者の文章は衝き返して再度執筆させた。東洋史学者宮崎市定に『科挙』『大唐帝国』執筆を依頼し、一般読書人に宮崎の名を知らしめてもいる。宮崎は名文で知られており、世界の歴史シリーズでも間然するところの無い文章を執筆したため、宮脇も衝き返さず、そのままとした。
と、今度は「宮崎市定」の項を見ると、「関連人物」の欄に、「宮脇俊三 - 中央公論社の担当編集者。全集の月報に執筆している。後に紀行作家となる。」とあった。
道理で文章がうまいわけだ。
★「Wikipedia」(日本語)「自強号」項
〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%BC%B7%E5%8F%B7〉
自強とは、1971年に台湾の中華民国国民政府が国際連合を離脱した際のスローガンである、「莊敬自強 處變不驚」(恭しく自らを強め、状況の変化に驚くことなかれ)に由来する。
この旅は1980年に行われた(6月2日~8日)。本書の中でも幾度となく言及があるが、当時の台湾は戦時体制であり、戒厳令下にあった。「大陸反攻」が真剣に――すくなくとも家の外では――、唱えられていた時代である。
著者が見た当時の台湾人の逡巡の理由は、おそらくこのあたりにあろう。
念のため、中国語(北京語)版のほうも見てみる。
★「Wikipedia」(中文)「自強號」項
〈http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%BC%B7%E8%99%9F〉
自強之名得自1971年10月26日,中華民國總統蔣中正面對《聯合國2758號決議》所發表的〈告全國軍民同胞書〉一文中的「莊敬自強,處變不驚」。
項目名が既にそうであるように、本文も繁体字である。つまりこれは、台湾(中華民国)側によるエントリーである。
おもしろいのは英語版で、まだ書きかけらしく英語と北京語がごっちゃになっているのだが、使われている漢字は大陸(中華人民共和国)の簡体字である(だが見出しのアルファベット表記 “Tzu-Chiang Train” はピンインではなく、ウェード・ジャイルズ式)。そして「自強」の由来については、いっさい言及がない。
概してあまり評判の芳しくない Wikipedia だが、その不完全さや不整合を、こうしてある意味、楽しむこともできる。
以上、仕事の合間の息抜きとして。
(角川書店 1985年8月)
付記。
Wikipedia には「宮脇俊三」のエントリーもあった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89)
1926 - 2003。「年譜」欄を眺めていて、この人が中央公論社の編集者として宮崎市定(1901- 1995)と交渉があったことを知る。
1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。以後編集者として活躍し、『中央公論』編集長に就任。当時の国鉄総裁石田禮助に自らインタビューをしたこともある。その後『婦人公論』編集長、開発室長、編集局長、常務取締役などを歴任。「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」など出版史に残る企画にたずさわり、名編集者と謳われる。作家北杜夫を世に出したのも功績の一つである。
「世界の歴史」シリーズでは専門的過ぎて分かりづらい学者の文章は衝き返して再度執筆させた。東洋史学者宮崎市定に『科挙』『大唐帝国』執筆を依頼し、一般読書人に宮崎の名を知らしめてもいる。宮崎は名文で知られており、世界の歴史シリーズでも間然するところの無い文章を執筆したため、宮脇も衝き返さず、そのままとした。
と、今度は「宮崎市定」の項を見ると、「関連人物」の欄に、「宮脇俊三 - 中央公論社の担当編集者。全集の月報に執筆している。後に紀行作家となる。」とあった。
道理で文章がうまいわけだ。