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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

小野和子 『明季党社考 東林党と復社』

2014年08月23日 | 東洋史
 「終章」の末文。論考全篇の結論でもある。

 明は党争によって亡んだというよりも、閹党の手によって亡んだ、というべきである。(631頁)

(同朋舎 1996年4月)

 8月23日付記。

 小野和子「明代の党争」(『中世史講座』6「中世の政治と戦争」学生社1992/3)に、「明王朝滅亡の原因は、君主権の恣意的行使と閹党の暴力的支配を可能ならしめた明の政治体制にあったのであって、党争そのものにあったわけではなかったのである」(同148頁)とある。
 なお、これは個人的な興味だが、では宋代の党争との違いは何処にあるのかと思い、おなじ『中世史講座』6に所収の竺沙雅章「宋代の士風と党争」を読んでみた。慶暦の党議、また新法・旧法の党争などとの比較である。
 小野論文は政治史として書かれている。政治過程を捉えることと、その過程の進行と結果の原因の探究とが、目されている。それに対する竺沙論文は、政治過程の進行と、その進行の枠となる政治体制のあり方(制度・理念)とに専ら目が注がれている。だから比較は難しいし、有意義とも思えなかった。

仁子寿晴 「中国思想とイスラーム思想の境界線 劉智の『有』論」

2014年08月22日 | 東洋史
 『東洋文化』87、2007年3月所収、同誌181-203頁。

 端的に言って『天方性理』には漢語にともなう意味論的ネットワークおよび中国的思惟が抜きがたく存在しているのであって、アラビア語やペルシア語で書かれたイスラーム思想の意味論的ネットワークをそのまま移しかえたものではない。 (181-182頁)

 翻訳とはそういうものではないかとも思えるが、氏の言葉はまだ続く。

 換言すると、イスラーム的思想構造が下地としてあり、その構造の各要素(用語)にそれと意味の近い漢語を順に当てはめていくという作業が行われているわけではないのである。だからといって中国的思想構造という下地にイスラーム思想がパッチワーク的に縫いこまれていると言ってしまえるものでもなく、中国的思想構造とイスラーム的思想構造のちょうど臨界点に『天方性理』が成立するという言い方がより適切であろう。 (182頁)

 やはり翻訳、良質の翻訳とは、常にそういうものではないかと思うのである。

Jean-Claude Martzloff, "A History of Chinese Mathematics"

2014年08月21日 | 自然科学
 出版社による内容紹介
 ベトナムの数学の歴史について、中国数学との関わりにおいて言及されている。

 15世紀に『九章算法』と『立成算法』という名の数学書がベトナム人の科挙合格者によって編纂された。その2世紀後、明・程大位の『算法統宗』が中国からもたらされた。17世紀から19世紀にかけては、中国でイエズス会宣教師により翻訳された西欧天文学の書籍が伝わった。(要訳
 ('10. Influences and Transmission', 'Contacts with Vietnam', p.110.) 
 
 『九章算法』と『立成算法』については内容に関する説明がないが、『九章立成算法』という書籍をこちらで見ることができる。
 これが本書で言う『立成算法』と同じものかどうかは判らない。ただ、この『九章立成算法』は、漢語で書かれている。両者もし同一物であれば、もうひとつの『九章算法』も漢語で書かれていた可能性がある。

(Springer Verlag, 2006)

何炳棣著 寺田隆信/千種真一訳 『科挙と近世中国社会 立身出世の階梯』

2014年08月21日 | 東洋史
 原書名:Ping-ti Ho, The Ladder of Success in Imperial China, Aspects of Social Mobility, 1368–1911 (1962)

 私の知識は社会諸科学一般、特に社会学からの恩恵を受けているが、本研究の重点は歴史的な社会学よりも、むしろ社会・制度史の有機的諸相にある。 (「第一刷への序文」本書8-9頁)

 史料というものはいかに良質で多量であっても、現代の社会学的調査に要する資料と種類を同じくすることはめったにないのである。 (同9頁)

 この研究に歴史学の徒である私が抱く違和感の源は或いはこの辺りにあるか。

(平凡社 1993年2月)

後藤基巳 「『天主実録』」

2014年08月20日 | 東洋史
 後藤氏著『明清思想とキリスト教』(研文出版 1979年7月)所収、同書177-198頁。もと『天主実録』(明徳出版社 1971年10月)の「解説」として執筆、収録されたもの。

 マテオ・リッチがカテキズムを漢語(文言文)で著した『天主実義』を執筆した理由は、その前に出たルッジェリの同じく漢文による教理問答書『天主実録』が、仏教の語彙用語をもってカトリックの教義を説いていたために、これを除くためと、それから『天主実録』が儒教に関して無関心でまったく配慮するところが無いので、補綴の必要があるとリッチが判断したためだという(同書184頁)。
 さらに後藤氏によると、自身儒教経典を読みこんでラテン語に翻訳するなど儒教への造詣が深かったリッチは、宋学以前の原始儒教の「上帝」に人格神の性質が強く、キリスト教の神(天主)と重なる部分があることに気づき、上帝=天主という論法を用いることで中国における布教の利便を考慮したとする(同、190-191頁)。
 なおこの論考では『天主実義』の文体についても言及がある。

 この書物はなるほど明代風の漢文で書かれてはいるけれども、決して典雅流麗な名文であると称しがたい〔略〕。 (「『天主実義』」177頁)

 時にはオーソドックスな漢文法から桁はずれの珍妙な句法や、漢文としては耳慣れぬ生硬な熟語――私はこれを利瑪竇的造語と呼ぶ――も飛び出してくる。 (同)

トメ・ピレス著 生田滋ほか訳注 『東方諸国記』

2014年08月20日 | 地域研究
 原題は "Suma Oriental que trata do Mar Roxo até aos Chins" .
 著者Tomé PiresについてWikipediaの記述

 第四部のシナ条に、首都をカンバラと呼んでいる。これはカンバリクの対音で(234頁加藤栄一注)、ピレスがこのくだりを書いた1511もしくは12年から15年までの間のマラッカおよびインドでは、中国でいえば明も半ばを過ぎているというのに、いまだに前の元代の名で呼ばれていたらしい。もっともペキンの名も見える。しかしビレスはこの二つを別の都市だと思って、そのようにしるしている。しかし明という王朝のある種本質を突いているかのようでもあって興味深い。
 なおシナ条では、明に臣従する国王の国と単なる友好または通商関係にあるだけの国王の国とを厳密に分けており、極めて正確に当時の中国と周辺諸国との所謂朝貢関係を叙述している。前者ではチャンパ、ベトナム、琉球Lequeos/Lequios、日本Jampon/Jampomの四者を挙げ、後者ではいくつかの東南アジア諸国を個別具体的に数え上げているのも、筆者が拠った情報の精確さを裏付けている。ところがその情報と分析の精密さにもかかわらず、前者には朝鮮の名が抜けている。さらには朝鮮は『東方諸国記』全体を通じその存在に関して言及がいっさいない。ちょっと不思議である。

(生田滋ほか訳注、岩波書店 1966年10月)