https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%9B%BD%E5%85%AC%E6%B3%95
『万国公法』の自然法への傾斜は、法が何に由来するのかといった法源についての説明箇所で著しい。国際法の用語には、「性」・「義」といった儒教的なことばが法と接続して使用され、中国人が国際法をより自然法に近づけて理解しやすい構造となっている。たとえば“Natural law”とは現代語では「自然法」と訳すが、マーティンは「性法」という訳語を与えた。この「性」とは、儒教の根本原理「理」のことであって、万物の根元であり法則とされる「理」が、個々の事物に宿るものが「性」であり、人の場合、それは「五常」(仁・義・礼・智・信)という徳目を意味する〔略〕。したがって、当時の人々が「性法」ということばを眼にした時、近代国際法とは(儒教的)道徳と法とが渾然一体ものとして理解され受容されていくことになった。すなわち本来、『万国公法』をはじめとする近代国際法は、国家間の権利や義務を規定するものであるのに、まるで全世界の国々が遵守すべき普遍的・形而上的な規範として理解されるようになったのである。 (「4.3.2 翻訳について」)
『万国公法』の自然法への傾斜は、法が何に由来するのかといった法源についての説明箇所で著しい。国際法の用語には、「性」・「義」といった儒教的なことばが法と接続して使用され、中国人が国際法をより自然法に近づけて理解しやすい構造となっている。たとえば“Natural law”とは現代語では「自然法」と訳すが、マーティンは「性法」という訳語を与えた。この「性」とは、儒教の根本原理「理」のことであって、万物の根元であり法則とされる「理」が、個々の事物に宿るものが「性」であり、人の場合、それは「五常」(仁・義・礼・智・信)という徳目を意味する〔略〕。したがって、当時の人々が「性法」ということばを眼にした時、近代国際法とは(儒教的)道徳と法とが渾然一体ものとして理解され受容されていくことになった。すなわち本来、『万国公法』をはじめとする近代国際法は、国家間の権利や義務を規定するものであるのに、まるで全世界の国々が遵守すべき普遍的・形而上的な規範として理解されるようになったのである。 (「4.3.2 翻訳について」)
「第三篇第二章 心論」、同書388-407頁。同篇の結論として著者は「意は心の発であり、志は心の之く所であるから、友に心の作用であり、従つて亦性の発動を予想するものであるが、果して性中の何の理から発するものと為すのであるか、此の点については朱子は未だ嘗て何も述べて居らぬのである」(407頁、原文旧漢字)とまでしか言っていないが、そこに至るまでの議論において「心は性情を統ぶ」であり(390頁)、「性」が「太極の理」であり(同頁)「情」が「一切の意識現象」であり(同頁)そして「知覚作用は性中の智の理が動いて起るもの」とある(402頁)。そうであるとすれば、朱子学においては人間に理性は存在しない。ただ同時に、「先知先覚」を「真理の認識(理の存在の認識=道徳的認識)」(401頁)としているところ、人間独自の思考、就中推論能力を、その位置付けは不明確・不十分ながら、有るものとして認めていることになる。先があれば後がある。後知後覚は人間のはからいということになる。
(目黒書店 1937年10月)
(目黒書店 1937年10月)
倉本一宏編『日記・古記録の世界』(思文閣出版 2015年3月)所収、同書227-269頁。
いわゆる「記録体」の研究であり、その面からみた宇多天皇の日記の分析である。本書は国文学および日本史の論集であって文献学のそれではないだろう。この論考もあきらかに歴史学の見地もしくは文脈に立って書かれている。
宇多のなかで、『倭』と『漢』はどのように位置づけられていたのか――。〔略〕それは、彼が天皇として再編を推し進め、十世紀に入って定着した新しい国制の性格や意味を考える上でも、あるいは貴重な手がかりを与えるものになるかもしれない。本稿は元はといえば、彼の文体を分析することを通じて、こうした問題をいくぶんなりとも考えてみようとするものであった。だが存外にも、日記からは彼の『漢』への傾倒ぶりだけが際立つ結果が導かれることとなった。これをどう捉え、どう位置づけたらよいのか。引き続き考えていきたい。 (「おわりに」同書260-261頁)
いわゆる「記録体」の研究であり、その面からみた宇多天皇の日記の分析である。本書は国文学および日本史の論集であって文献学のそれではないだろう。この論考もあきらかに歴史学の見地もしくは文脈に立って書かれている。
宇多のなかで、『倭』と『漢』はどのように位置づけられていたのか――。〔略〕それは、彼が天皇として再編を推し進め、十世紀に入って定着した新しい国制の性格や意味を考える上でも、あるいは貴重な手がかりを与えるものになるかもしれない。本稿は元はといえば、彼の文体を分析することを通じて、こうした問題をいくぶんなりとも考えてみようとするものであった。だが存外にも、日記からは彼の『漢』への傾倒ぶりだけが際立つ結果が導かれることとなった。これをどう捉え、どう位置づけたらよいのか。引き続き考えていきたい。 (「おわりに」同書260-261頁)
『中国史の時代区分の現在』(汲古書院 2015年8月)所収、同書339-354頁。
同書の出版社による紹介。
この論文のおかげで、公共空間が開封のどこで、どう機能していたかがわかった。表題の「公共(性質)」および文中「公共空間」の概念は、とくに断りがないので、今日のそれで理解してよいらしい。
同書の出版社による紹介。
この論文のおかげで、公共空間が開封のどこで、どう機能していたかがわかった。表題の「公共(性質)」および文中「公共空間」の概念は、とくに断りがないので、今日のそれで理解してよいらしい。
「第一部第二章第一節 空海と中国思想と――『指帰』両序をめぐって」を読む。空海が大学でなぜ『春秋公羊伝』(および同『穀梁伝』)に関心を示さなかったのかという疑問をめぐる考察がある。本書72-74頁。
(吉川弘文館 1985年10月)
(吉川弘文館 1985年10月)
出版社による紹介。
私は、原書で読むべきだろう。「歴史も、事実も、言葉で成り立つ」という著者の信条に、敬意と賛意とを表して。
歴史は科学ではなく文学である。またそうあるべきだ――私たち歴史家にとって。 (81頁)
(みすず書房 2013年11月)
私は、原書で読むべきだろう。「歴史も、事実も、言葉で成り立つ」という著者の信条に、敬意と賛意とを表して。
歴史は科学ではなく文学である。またそうあるべきだ――私たち歴史家にとって。 (81頁)
(みすず書房 2013年11月)
「近代日本思想史における国家理性の問題」(もと『展望』1949年1月号掲載、本書3-24頁)より抜き書き。
日本における国際法の輸入の過程についてはすでに吉野・尾佐竹博士以来の研究が明らかにしており、ここに反覆を控えるが、その際、丁韙良(ウィリアム・マーティン〔原文ルビ〕)の漢訳によって紹介されたホイートンの『万国公法』が、やがて「天地の公道」とか「万国普通の法」とかあるいは「宇内の大道」とかいう言葉で通用しはじめたとき、そこにはほとんどつねに儒教の「天道」が連想されていた。そうして、人間の先天的に保有する理性のなかに法の基礎を求めるフーゴー・グロチゥス以来の自然法思想――ホイートンはじめ当時国際法学はまだ実定法学としての明確な自覚を持っていなかったから、その基底は直接自然法に連なっていた――は、聖人の道を一方、宇宙の「天理」に、他方、人間の「本然の性」(性理)に基礎づける宋学と、あたかも照応したのである。(11-12頁)
(岩波書店 1995年10月)
日本における国際法の輸入の過程についてはすでに吉野・尾佐竹博士以来の研究が明らかにしており、ここに反覆を控えるが、その際、丁韙良(ウィリアム・マーティン〔原文ルビ〕)の漢訳によって紹介されたホイートンの『万国公法』が、やがて「天地の公道」とか「万国普通の法」とかあるいは「宇内の大道」とかいう言葉で通用しはじめたとき、そこにはほとんどつねに儒教の「天道」が連想されていた。そうして、人間の先天的に保有する理性のなかに法の基礎を求めるフーゴー・グロチゥス以来の自然法思想――ホイートンはじめ当時国際法学はまだ実定法学としての明確な自覚を持っていなかったから、その基底は直接自然法に連なっていた――は、聖人の道を一方、宇宙の「天理」に、他方、人間の「本然の性」(性理)に基礎づける宋学と、あたかも照応したのである。(11-12頁)
(岩波書店 1995年10月)
https://en.wikipedia.org/wiki/Sinicization
Sinicization, sinicisation, sinofication, or sinification, (Chinese: 汉化; pinyin: Hànhuà), also called chinalization[dubious – discuss] (Chinese: 中国化; pinyin: Zhōngguóhuà), is a process whereby non-Han Chinese societies come under the influence of Han Chinese state and society.
'come under the influence of Han Chinese state and society'とは何ぞや。これならば王朝時代・近現代を問わず、中国の領土・版図内に居住あるいはその外から移動してきた異民族は、すべて漢化した(された)ことになる。民族としての「漢化」と被支配民・被治者もしくは国民としての「中国化」とを区別しない弊害がここにこうして現れる。
Sinicization, sinicisation, sinofication, or sinification, (Chinese: 汉化; pinyin: Hànhuà), also called chinalization[dubious – discuss] (Chinese: 中国化; pinyin: Zhōngguóhuà), is a process whereby non-Han Chinese societies come under the influence of Han Chinese state and society.
'come under the influence of Han Chinese state and society'とは何ぞや。これならば王朝時代・近現代を問わず、中国の領土・版図内に居住あるいはその外から移動してきた異民族は、すべて漢化した(された)ことになる。民族としての「漢化」と被支配民・被治者もしくは国民としての「中国化」とを区別しない弊害がここにこうして現れる。