書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

岸俊男編 『日本の古代』 14 「ことばと文字」

2015年06月29日 | 日本史
 和化漢文は日本語を文字表記しようと意図したものであるが、表記の技術が伴わず、漢文的な措辞を取らざるをえない場合も多かった。たとえば日本語の目的格を示そうとしても、格助詞「ヲ」に体操する語が漢語にはない。それゆえ日本語の語法に従って目的語を動詞より前に置けば、意思を正確に伝達できない場合も生じる。そのために、前掲の「薬師像光背銘」でも、「治天下」〔原文返り点付き、以下同じ〕「歳次丙午年」「召於大王天皇与太子」「造寺」など、漢文の語順に従った例も見られるのである。 (森博道「3 日本語と中国語の交流」「② 古代の文章と『日本書紀』の成書過程」「古代の文章」、本書178-179頁。下線は引用者)

 当時の日本語が語彙や表現あるいは文型が未発達で漢文を交えていたから書かれた場合に漢文(古代漢語)そのままの語順が交じったのではなく、書き言葉としての漢文が日本語をそのまま表せなかったからしかたなく漢文でできる範囲に日本語の表記を止めたという議論。発想が逆で、非常に教えられる。

(中央公論社 1996年11月)

相良亨 「日本の『理』」

2015年06月26日 | 日本史
 『文学』55-5、1987/5、71-81頁。

 諸慣習をふまえて、状況に適切な処置をとることが、彼ら〔『貞永式目』を定めた北条泰時ら〕の道理を推す営為であった。それが彼らのいう「了見」することでもあった。道理を推すとは、〔略〕習(ならい)あるいは例(ためし)・定(さだめ)を、新しい状況に即応して生かす営みであり、それはまた『吾妻鏡』の表現をかりれば「例(ためし)を始める」営みであったといえよう。 (72頁)

 相良先生は、「道理」は「慣習の次元を超えるものでない」(72頁)、また「時代や場所をこえる普遍的な規範ではなく、また普遍的なものを追究する姿勢はここには認められない」(72頁)と断じた上で、さらに「政治的次元でも倫理的次元でも、まず慣習的な内容をもつものであった」(73頁)と、念を押される。では先生も引かれる『沙石集』の「義トハ、正直ニシテ道理ヲ弁ヘ、是非ヲ判ジ、偏頗ナク奸邪ナキ事也」の「正直」は何だろう。人が「義」たるべく「是非ヲ判ジ」るための手段が「正直」のようである。
 
 さらに、相良先生は宇井伯寿『仏教思想研究』を引いて、その説を紹介しておられる。それが実に興味深い。

 中国においては理が事に現われるということを主としたが、日本では、事即理であり、事を離れた理を見てこれを一層高遠なものとすることなく、事が理に外ならぬとするところに日本仏教の特色がある。 (74頁)

 類概念を持たない唯名論の古代漢語に対し、日本語は平安初期に実念論を獲得して事物の抽象化を行ったところが、中世に入ると、理の概念においては個別具体的にいわば退行し、中国の方が却って抽象的な理観念を示しているようにも見える。

溝口雄三 「中国の『道』」

2015年06月26日 | 東洋史
 『文学』55-8、1987/8、78-94頁。

 溝口先生は、中国には「道」の概念とからんで日本にはない“社会性”(共同性、政治性とも)の概念があり、「個人」も近代に入って析出され、存在したと仰る。私は「我」は「個」ではないと思うが。我欲は個人の自覚ではないという意味。

大野晋 『日本語をさかのぼる』

2015年06月24日 | 人文科学
 著者は、日本語の歴史において、具体的な事物や動作を指す語から、抽象的な意味を表す語がつくりだされるという経過をたどると主張される。たとえば「もの」という言葉は、最初は個別具体的な「存在物」を指し、次に「存在一般」という種または類(後述)概念を意味するようになったと。ここで例として平安時代の「もの」、あるいは動詞化した「ものす」が挙げられる(「第一部第三章 語の意味は展開し変化する」、とくに28-34頁)。
 しかしながら、この「もの」=存在一般には人間は入らない。少なくとも抽象化の当初においては人間とそれ以外の存在は峻別されており、たとえば平安初期の漢文訓読体では人を示す「者」は「ヒト」と訓み、「モノ」とは読まなかった(33頁)。
 ここで想起するのは中国語である。欧米語および日本語漢字語彙の影響が大きい現代漢語(普通話)はさておき、古代漢語(文言文)においては、漢語の意味はあくまで個別・具体の意味に留まり、類概念を持たなかったというのが、私の理解するかぎりにおいて加地伸行先生の御説である。両者の歴史におけるこの差異の指摘は、非常に興味深い。漢語では唯名論が、日本語では実念論が発達したということになる。
 この主張は、三枝博音氏の三浦梅園評価と絡めると、非常に興味ある思考の材料を提供する。

(岩波書店 1974年11月)

湯浅幸孫 「思想家としての王廷相 張載と王廷相」

2015年06月21日 | 東洋史
 2014年07月25日「湯浅幸孫 『中国倫理思想の研究』」より続き。
 『中国思想史研究』2、1978年9月掲載、同誌1-23頁。

 王は気は不滅とし、理は一つではなく万事にそれぞれ別の理があるとした。これらはすべて朱熹の意見と異なる。しかも彼は気の不滅では意見を同じくした張載ともここで分かれ、経験に基づく知識の要素を重視して人間における先験的な認識能力の存在を否定した。

冨谷至編 『漢簡語彙考証』

2015年06月21日 | 東洋史
 大学図書館に入ったので借りた。面白い。この時代、辺境で簡牘に書かれた文章は実務の文章だから、普通言われるところの「文言文」の内包にも外延にも入らない。後世、胥吏や官僚が官庁内で紙に書いた内部文書の文体と同様にである。

(岩波書店 2015年3月)

源了圓 『徳川思想小史』

2015年06月21日 | 日本史
 再読

  否定と破壊(明治維新)のあとで、国家という規模で一つの新しいかたちをつくることは、エリートたちの集団をつくることよりも、はるかに困難な仕事であった。というのは、合理的思惟、実証や実験にもとづく実学、経済合理主義、個人主義的意識、そしてその底にある世界史的視野は、徳川思想のすべてを覆うものではなかった。 (「終章 幕末から明治へ」254頁)

 これを逆に言えば、源氏はこれらが当時において「近代化」の要件だったとしておられるわけである。そのうち、何が足り、何が足りなかったのか。

(中央公論社 1984年8月)

木田章義 「古事記そのものが語る古事記の成書過程 『以音注』を手がかりに」

2015年06月21日 | 日本史
 『萬葉』115、1983年10月掲載、同誌33-55頁。

 筆者は『古事記』に内容および編集方針(表記の仕方や注の付け方など)の混乱があると指摘し、その理由として、複数の人間が執筆編集に関わった(太安万侶は編集者の一人)可能性と、さらに現行の『古事記』が成稿ではなく草稿である可能性を指摘している。