書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

松田誠 『脚気をなくした男 高木兼寛伝』

2018年04月25日 | 伝記
 出版社による紹介

 脚気論争を、「麦飯がなぜ脚気に効くのかよくわからないが効くのは事実に徴してたしかだ」vs「なぜ麦飯が脚気に効くのか根拠を示せ。それを示さないうちは当方は納得しないし麦飯を採用することもしない」の図式として呈示する。なお巻末参考文献欄に板倉聖宣『模倣の時代』を挙げてある。

(講談社 1990年4月)

古田敬一/福井佳夫  『中国文章論 六朝麗指』

2018年04月23日 | 文学
 出版社による紹介

 第五節「比興と六朝文」の「語釈」で“比興”の比は比喩、興は象徴にほぼ相当すると説明してある(【詩有六義】項、本書27頁)。ほぼ相当するというのはほぼ相当するだろうが、正確にはそれでいいのかという気もする。

 また、第三十五節を、古田・福井両先生のお助けを借りつつ読んで、御両所には申し訳ないながら、孫德謙(1865-1935)という人は暗記の勉強がすぎて頭が鈍くなったのではないかと思った。

(汲古書院 1990年3月)

ある専門家がご自身の担当したチベットについての概説書の一章で・・・

2018年04月18日 | 思考の断片
 ある専門家がご自身の担当したチベットについての概説書の一章で、チベット仏教論理学を「AはBである」命題のそれ(つまり述語論理)と説明してある例を見たが、私はチベット語がわからないが、それでよいのだろうか。チベット仏教論理学のもとになったインド仏教論理学は述語論理ではない。正確にいえば繋辞をつかわない。「である」式の文ではないということ。