某御大訳のチェーホフをぱらぱらと見る。「かもめ」など。訳の世界が原文の雰囲気とさして変わらぬのは流石と思うが、「です/ます(わ)」「ね」「でな」などの登場人物ごとに選ばれ使い分けられる話し言葉の語尾で、こんなふうは原作にはないと違和感がわき起こる。
出版社による紹介。
「一言でいってしまえば道教は科学とは呼べないし科学的とも言えないし基本駄目なんだけれど、それを言わないことにすればこんなにいいところがある!」という論法。
(東方書店 2017年7月)
「一言でいってしまえば道教は科学とは呼べないし科学的とも言えないし基本駄目なんだけれど、それを言わないことにすればこんなにいいところがある!」という論法。
(東方書店 2017年7月)
出版社による紹介。
文学のむずかしさがありありとわかる。つまるところ、「私はこう思う、感じる」「こう読んだ」「こんな印象を受けた」になってしまう。論者の感性と結論に、それを客観的に裏打ちすべき方法論が追いついていないのである。
(汲古書院 2007年10月)
文学のむずかしさがありありとわかる。つまるところ、「私はこう思う、感じる」「こう読んだ」「こんな印象を受けた」になってしまう。論者の感性と結論に、それを客観的に裏打ちすべき方法論が追いついていないのである。
(汲古書院 2007年10月)
『東方学』59、1980年1月掲載、同誌44-61頁。
同伝のなかの“以文被質”という文の解釈を聴きたかったのだが、「文を以て質を被らしむ」と訓読されているのみだった。“気質”は「気質」とカッコに入れてある。それが何を意味しているのかよくわからない。
同伝のなかの“以文被質”という文の解釈を聴きたかったのだが、「文を以て質を被らしむ」と訓読されているのみだった。“気質”は「気質」とカッコに入れてある。それが何を意味しているのかよくわからない。
初めて読む。奥付の訳者略歴から、訳者が25才、修士課程在学中の訳業ということで、その行文の老練さに驚く。
(白水社 1978年2月)
(白水社 1978年2月)
ある専門家がご自身の担当したチベットについての概説書の一章で、チベット仏教論理学を「AはBである」命題のそれ(つまり述語論理)と説明してある例を見たが、私はチベット語がわからないが、それでよいのだろうか。チベット仏教論理学のもとになったインド仏教論理学は述語論理ではない。正確にいえば繋辞をつかわない。「である」式の文ではないということ。