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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ウィキペディア「三分」項

2018年08月30日 | 宗教
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%86

 三分(さんぶん)とは、経典を序分・正宗分・流通分と3つに分けることをいう。また科段(かだん)、分科(ぶんか)、科文(かもん)、三分科経(さんぶんかきょう)ともいう。すなわち三科分類法のことである。

 とあるように、三分=科段=科文と、それぞれ同意語と説明してあるが、花山信勝校訳『勝鬘経義疏』(岩波書店 1948年8月)においては科段と科文が別のものとして並立している。前者は内容要約、後者は三分に基づく同経の具体的構造の分析である。同書12-13頁。

Kristian Petersen, "Interpreting Islam in China"

2018年02月15日 | 宗教
 副題:"Pilgrimage, Scripture, and Language in the Han Kitab"
 出版社による紹介

 アマゾンの“なか見!検索”で読めるだけ読んでみたが、現在の値下がりした価格でも二の足を踏む。詳しい内容だが、英語による思考と英語(圏)の研究者ならではの視角やそれによってもたらされる新知見はなさそうだ。基本的に日本(語)での研究と、あと自分で史料を読めば、おのずと得られる内容ばかりのようである。

(Oxford Univ Pr, Oct. 2017)

高井寿雄 『ギリシア正教入門』

2018年02月14日 | 宗教
 出版社による紹介

 1978年10月出版の改訂版を読む。ギリシア正教とは言うが、その歴史的な経緯もふまえて、本書の内容はロシア正教についてがもっぱらである。そのことにつき、著者は、このギリシア正教(会)は「東方教会」全体の総称であって、そのなかにギリシア正教会をはじめロシア正教会そのほかもふくまれると、途中ながら断り書きを入れている。「第7章 正教の歴史」、178頁。
 ロシア正教で使う日本語訳聖書(文語・日本正教会訳聖書)をニコライ(大主教)とともに作成した中井木菟麻呂と、彼の姉妹のことも、簡略ながら出てくる。「第2章 ギリシア正教とは何か」、63-65頁。
 この書の入門書としての特徴は、典礼の説明が判りやすくかつ丁寧であること、あと当時のロシア正教会はソ連の国家体制の下にあり、さらには東西の冷戦時期であり、これはその時代に書かれたロシア正教と日本におけるロシア正教の歴史の紹介であること。翻弄されたにもかかわらず、あからさまなソ連と米国のロシア正教・正教会にたいする態度や政策への批判はここにはみられず、淡々として事実と経過の記述がなされるのみである。

(教文館 1970年1月初版)

『植村正久と其の時代』

2017年12月15日 | 宗教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E6%AD%A3%E4%B9%85%E3%81%A8%E5%85%B6%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3

 第4巻に明治初年の聖書の日本語翻訳についての記述と資料紹介がある。植村はこの明治元訳に携わり、のち大正改訳を提起・参画するのだが、その提起の議論(とりわけ改訳の理由)が、案外保守的であると思える。とりあえずの備忘。

Ernst R. Wendland, "Translating the Literature of Scripture"

2017年07月22日 | 宗教
 副題:"A Literary-Rhetorical Approach to Bible Translation"
 出版社による紹介

『聖書』とは経典、神の言葉を記したものであるから、内容に関しいかなる意味上の変更も、今日の時代状況や翻訳先の言語や文化に合わせてのいかなる修正・翻案もまかりならんと、開巻すぐ釘を刺してある。『聖書』を翻訳するとはそういうことだと言うのである。'Preface', p. xix.
 疑うな、おのれの賢しら(理性?)で解釈しようとするな、書かれているとおりに、正確に解釈し翻訳せよということなのだが、だがそのテキストを書かれているとおり“正確に”“解釈”するのは人の精神における何なのであろう。

(Dallas: SIL International, June 2004.)

外典 - Wikipedia

2017年05月04日 | 宗教
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%85%B8

 同項の英語版露語版漢語版もあわせて参照した。書記する言語によって表現できる概念や世界が異なってくることについては、むかしもいまもたいして問題にはならなかったのだろうか。これらではさほど触れられてはいないが、外典は現存テキストのみならず最初からヘブライ語・ギリシア語に限らない言語で書かれた(らしい)テキストも存在すると聞く。