中井政喜 『魯迅後期試探』 2017年03月30日 | 文学 かつて王暁明「魯迅最後の十年」という評伝を翻訳したとき、その文章が基本的にすべて彼の作品や日記、書翰からの引用もしくはその内容を踏まえての叙述で、その些も忽せにしない姿勢に感嘆したことがあるのだが、いまも同じ感嘆を覚えている。 (名古屋外国語大学出版会 2016年10月)
栗林慧 『改訂新版 栗林慧全仕事』 2017年03月30日 | その他 出版社による紹介。 立花隆氏の『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』(文藝春秋 2007年1月)でつとに教えられていた本。読まないうちに改訂新版が出ていたので急ぎ手に取った次第。 (学研出版 2016年12月)
劉知幾『史通』の(論)理、または理(性) 2017年03月30日 | 思考の断片 いま探し出せないが、劉知幾『史通』の議論を“合理的”と評した紹介文があった。このたび西脇常記という大先学の教えを受けながら内篇および外篇を通読し了えたが、これは合理的ではない。体系立っているものの、少なくとも現代の“合理的”とはその意味が異なろう。
加藤繁 「漢代に於ける国家財政と帝室財政との区別並に帝室財政一斑」 2017年03月30日 | 東洋史 『支那経済史考証』上(東洋文庫 1952年3月)所収、同書35-156頁。 前漢時代はそうであるが、後漢以後はそうでなくなるという。しかしその理由は説かれない。国家財政に属する財源は此々で、支出項目は此々、帝室財政についても同様に此此々々であると列挙される。しかしその区別のあった所以は説かれない。また或収入がどうして国家財政に属しまた或者は帝室財政へと属するのか、その考察はまったくなされない。加藤という人は案外思考回路の偏った人だったのかもしれない。何(誰)が・何時・何処で・如何に、は堅牢だが、どういうわけか何故か、が抜けている。
加藤繁 「道光咸豊中支那にて鋳造せられたる洋式銀貨に就いて」 「~の補遺」 2017年03月30日 | 東洋史 和田清編『支那経済史考証』下(東洋文庫 1948年4月所収、同書450-458、459-462頁。 驚いた。「こういうものがあった。質量はかくかく形状はしかじか」「いつどこで作られた」という内容で、ほぼ論がない。
増井経夫 「銀経発秘と洋銀弁正」 2017年03月30日 | 東洋史 『和田博士還暦記念東洋史論叢』(大日本雄弁会講談社1951/11)所収、同書625-639頁。 面白いが、両書とも和訳または大意の紹介で、原文の引用がない。あまりに変格な文言文で難解なのでその価値はないと判断されたか。しかし語学屋には興味がある。 べつに知識人でもない商人が誤字脱字だらけの古代漢語で“現今”を捉え表現しようとしたその結果は何如と。
聶莉莉 『「知識分子」の思想的転換』 2017年03月24日 | 地域研究 出版社による紹介。l よくわからなかった。ただ上記出版社による紹介にも転載されている第一章より以下のみメモする。 知識分子が独自に刊行物を作る「自由」がなくなり、意見を発表する拠点を失ったことは、単に個々人にとって見解や研究成果を公表する手段やルートを無くしたことを意味するのみではなく、それ以上に、「天下」や社会に対する責任をもつと自負し、知識を生産する社会階層とされてきた知識分子群にとって、知を育成し、民衆に発信する公共の場がもはやどこにも存在しないことを意味した。 (風響社 2015年12月)
鄭遠漢編著 『現代漢語修辞知識』 2017年03月22日 | 人文科学 原題:郑远汉编著《现代汉语修辞知识》。 その名の通り、現代漢語のレトリックに関するハンドブックである。主語謂語といった文法概念で分析しているので、品詞と分の要素の概念がない(少なくとも希臘語文法のそれを淵源とする西洋語のそれは)古代漢語には、基本通用しない。しても当てはめに終わる。 (中国 湖北人民出版社 1979年8月)
鄭子瑜 『中国修辞学史稿』 2017年03月22日 | 人文科学 原題:郑子瑜《中国修辞学史稿》。 各章の序文が「楔子」となっていて面白い。よって書法文体も、稗史小説のような物語風の叙述様式で、テーマごとではない。思惟までが伝統的な総合的なそれで、分析的の観点に乏しい。なにより使用する概念のきちんとした定義(内包)がない。漢語そのものの歴史的な修辞思想を、その具体的なありよう(つまり具体的な文献資料)に依拠して明らかにしてゆく内容だけに、この著にかぎっては、古い革袋に新しい酒が盛られていないのが残念でならない。 (上海教育出版社 1984年5月)
鐘勇/井上奈良彦 「日本語における上下メタファーの体系構成 及びその特徴に関する一考察」 2017年03月14日 | 人文科学 『言語文化論究』30, 2013年3月掲載、同誌13-26頁。 実に興味深い。上下のメタファーは日本語におけるさまざまな“(イメージ・)スキーマ”の写像のひとつであり、言い換えれば上下のメタファーは上下のスキーマのメタファーなのである由。さらにこのスキーマが”(構造性)基盤”となって、意味に評価性を付与する。上下スキーマの場合、ある“抽象的概念”への評価が肯定的であるとそれは“上”のメタファーとなり、否定的であると“下”となる。その対象となる主な領域としては、「数量、時間、社会的等級、状態および評価など」(16頁)であり、これらの「目標領域」に「写像」される(同頁)。