書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

小松久男/荒川正晴/岡洋樹編 『中央ユーラシア史研究入門』

2018年09月18日 | 地域研究
 出版社による紹介

 市図書館の順番が回ってきてやっと読めた。次の予約も入っている。外は持ち運びやすく内は読み解りやすい。

(山川出版社 2018年4月) 

島田虔次『朱子学と陽明学』再読

2018年09月12日 | 地域研究
 形式論理思考が基本もしくは規範の現代日本人(日本語話者)の頭で見れば、朱子も二程も王陽明も程度の差こそあれみな没分暁漢なのだが、それを「いやそうではない」と現代日本人・日本語の頭のままで理解し弁護すらしようとするから無理が出ると、大まかに観た。その線でテクストを矛盾なく読解しようとすること自体がすでに弁護の範疇に入っているとも。
 日原利国『中国思想辞典』で金谷治執筆「知」を引くと、「智」ともども「理性の働き」と書いてある。西欧・西洋起源の概念であり語彙でありそのための幕末明治以後の新造翻訳漢語である「理性」を、そのまま伝統中国の事物の定義と説明に使うこともまた、知的省エネでなければ弁護の一種と言えはしないか。

山田慶児 『混沌の海へ 中国的思考の構造』

2018年09月10日 | 地域研究
 過去の議論からの続き。

 「孟子は、分析的理性の働きが実践的有効性の限界をこえるとき、それを『穿鑿』とよんできびしく非難した」(「中国の文化と思考様式」"4 分類原理と技術的思考" 24頁)とある。これは原文は『孟子』のどこだったかしらん。出典の指示がないので。
 もっとも私も、“何か”の概念が「実践的有効性の働きをこえるとき云々」という意味の似たようなくだりを読んだ憶えはある。ただ「分析的理性」という概念が『孟子』のなかにあったことは知らない。
 そして山田先生は「ジェスイットの指摘」によればとしたうえで、「中国人は理性の自然の光にしたがってさまざまな観念を比較し、正確な結論をみちびきだす」とされるのだが(同"6 フィルターの変質と近代の変質"35頁)、彼らの中国理解は“理”を理性ratio他と理解翻訳する体の表面的なものではなかったか。
 イエズス会の宣教師は、彼らが見たいものを見た、あるいは極言すれば西洋へ報告する際の都合のよいダシに中国を使ったと、私は考えている。それを受け取った西洋の人間も、自分に都合がよいから受け入れたのだと。

(筑摩書房 1975年10月)

『北京大学版 中国の文明』 7 「文明の継承と再生 上 明清―近代」

2018年09月02日 | 地域研究
 二年前に出版後すぐ買って読み、驚嘆し、ついでシリーズ全体に手を広げたもの。読み直してみたら、より冷静に内容を評価することができた。

 陽明学は伝統的な思想の論理的な発展の成果であり、明代中期の新しい社会の条件のもとでは、特殊な「思想解放」という大きな意義も持ちました、王陽明が創った「良知(りょうち)」〔原文ルビ〕説が、理性の「自得」と「独断」を提唱し、伝統的な経典と程朱理学の教条主義の束縛を打ち破ったことは、初期の啓蒙思潮のために新たな地平を切り開いたに等しいことでした (「第二章 初期の啓蒙思潮と政治文明の新要素」 本書101頁)

 たとえば侯外盧の『中国思想通史』に比べれば視野も広く考えも柔軟で、まさに「伝統的な経典」と「教条主義の束縛を打ち破った」「思想解放」とこの書を含む全シリーズについて言えることなのだが、どうしても譲れぬ一線というのはあるらしくて、「啓蒙思潮」は、侯外盧本においてそうであったように、あくまで(おそらくは史的唯物論に基づく世界史の基本法則によって)内発的なものでなければならず、さらには「理性」は元来ヨーロッパ思想史における一概念であるにすぎないのに、中国史においてもその存在は自明のものと、ここではされていることなど。

(潮出版社 2016年2月)

春日孝之 『イランはこれからどうなるのか 「イスラム大国」の真実』

2018年08月28日 | 地域研究
 出版社による紹介

 本棚から出して久しぶりにめくってみたら、「ペルシャ人にはもともと『反省する』といった思考回路がない」という「あくまで専門家の一般論」のくだりに付箋を貼っていた(81頁)。ペルシャ美術や文学を愛好し賛美する者としては、そこまでおのれに自信があっても当然かと思うというのが、「あくまで素人の一般論」。

(新潮社 2010年9月)

萩原遼/井沢元彦 『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』

2018年08月27日 | 地域研究
 イマゴロ読ンダ。

(祥伝社 2011年11月)

加地伸行 「《韓非子》における〈矛盾〉説話」

2018年08月22日 | 地域研究
 『懐徳』36、1965年10月掲載、同誌45-58頁、原文旧漢字。

 冒頭、矛盾のあの説話は本当にcontradictionに当たるものを説いたものであるのかという、根本的な疑問を提起したうえで、その「基礎的検証さえ行わない」侯外盧『中国思想通史』の「韓非子的世界観、知識論和邏輯学」は「〈矛盾〉説話に与えた哲学史的評価には疑義をはさまざるを得ない」(45頁)と指摘する。以下、加地先生の議論が続くわけである(私はその論旨に賛成である)。そして、私などには当然でありすぎるとさえ思える冒頭の疑問にして疑義であるが、そうは思わない方も少なからずおられるだろう。直截間接には何人もそうと判断できる人をしているが、総数はわからない。それにそもそもそのような問題には関心がないと見たほうがよいと思える人(一般人および専門の研究者)も中にはおられるから、実数はますます掴みにくくなる。

加地伸行 「中国古代論理学史における荀子」

2018年08月22日 | 地域研究
 『東方学』41、1971年3月、同誌1-16頁。

 乱暴に言えば、荀子、そして墨家が西洋の形式論理的思考に近いからそれがなんだという話である。

 中国古代論理学の諸研究は、実証主義的研究からマルクス主義的研究に至るまで、その材料が、伝統的形式論理学の諸規則に適合するのかどうかということを大きな基準にしてきた。(5頁)
 
 一昨年だったか大学院で講義演習を持ったさいに思ったのは、中国からの留学生のほうがいまやこの根本的な思惟において柔軟ではないかということだった。その一人が微苦笑しながら私にこう言ったのは象徴的である。「日本の中国学の先生方はいまだに侯外盧の『中国思想通史』を持ち出されますね。」唯物主義にちかいかどうかがほとんど唯一の判断基準という、こんにちではもはや驚くべき珍書の類だから彼の驚くのも無理はない。


加地伸行 「《老子》の〔道〕 その概念の基礎的考察」

2018年08月22日 | 地域研究
 『東京支那学報』14、1968年6月掲載、同誌22-23頁。

 “本体”noumenonという考えかたは西洋哲学のものであって、その概念と存在を自明にして老子の道に向かうのは、その前に「〔道〕が〔本体〕として等質的に概念化できるものであるかどうか、その徹底的な検証がなくてはなるまい」(24頁。原文旧漢字、以下同じ)という指摘はまことにその通りだと思うし、続く「この基礎的考察がなされていないならば、その上に構築されたいかなる議論も、仮説の基礎的反省がない以上、およそ〔哲学的に〕意味がない」(同上)についてもまた然りである。

戸川芳郎 「古代的思惟と上古漢語」

2018年08月22日 | 地域研究
 副題「主として漢語語彙論よりとらえた「前論理的」思惟の様相について」
『中国の文化と社会』 (8)、1960年10月掲載, 同誌1-57頁。

 非常に面白い。私が考えたことをすでに先に言っておられる――私の生まれた年に書かれた論文だ――ところもあり、はるかに後に読んで学んだところもある(初めて読んだのは数年前)。たとえば古代漢語のなかでもさらに古い時代には受身およびそれを要請する思惟がなかったという指摘と議論など。