書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

劉暁波著 野沢俊敏訳 『現代中国知識人批判』 から

2009年05月29日 | 抜き書き
 中国の「実用理性」〔功利的人格〕と西洋の実用精神にはなんの共通点もない。〔中略〕
 それ〔西洋の実用精神〕は経験的事実をもって真理を検証する基準としている。〔中略〕それはただ真実であるか否かを問うだけで、政治的利益と道徳的善悪を問わない。真実が宗教的タブーや権威の意志に反するとき、真実が政治的権力や道徳規範および社会常識と衝突するとき、実証主義の精神は真実だけに従う。
 一方、中国の「実用理性」は、事実や真実と向き合うことを最も嫌い、権威を疑うことを最も恐れ、むしろ君主の命に従って真理に従おうとせず、聖人の教戒を信じて自己判断を信じようとせず、古籍を信じて事実を信じようとしない。現実において、「実用理性」は政治権力と道徳規範を支えとし、ただ政治権力と道徳規範だけに従う。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書192-193頁)

 学術において、中国の知識人はめったに経験的事実と向き合うことはなく、仮説を提出して実験でそれを検証しようとしない。そして、難題にぶつかるごとに教条に救いを求め、文字の考証をもって化学実験に代え、古人の遺訓をもって理論仮説に代えるのである。
 漢代の経学の大御所にはじまり、数千年間、中国の文化人は文字考証のゲームをしてきた。そして山積みになった注、疏、釈義が、中国の最も正統な学術研究の対象となった。デユーイのプラグマティズム哲学の影響を深く受けた胡適でさえ、西洋の実用精神と中国の考証の伝統との根本的な違いをわきまえていなかった。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193頁)

 文字の考証は学問の方法のひとつであり、それはただ実証できるだけで、発見することはできない。発見は経験的観察、理論の仮説、実験の証明によって完成するものであり、またインスピレーションの啓示によって導かれることもある。しかも、学問の実証の方法についてだけいっても、文字の考証は一番重要なものではない。なぜなら、本の上のいかなる理論もかならず実験による実証を経てはじめて真理性をもつからである。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193頁)

 ところが中国が書籍と文字の考証をかくも重んずるその深層の原因は、これらの書籍と文字が権威として奉られている者たちによって書かれているからということにある。権威は永遠に正しいというのが考証をおこなう心理的前提であり、後世の人がしなければならないのは、ただ考証のなかから権威にたいする誤解を排除することだけである。もし権威が最初から間違っていたなら、あるいは権威も歴史とともに時代遅れの骨董になるものであるなら、自分たちの考証はそれこそまったく徒労な仕事ではないのかといった問題を、中国の知識人はほとんど考えたことがない。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193-194頁)

 これ以上、何を付け加える必要も認めぬ。

(徳間書店 1992年9月)

「『日本車お断り』 中国・重慶に『抗日スタンド』登場」 から

2009年05月29日 | 抜き書き
▲「msn 産経ニュース」2009.5.29 09:31、上海=河崎真澄。 (部分)
 〈http://sankei.jp.msn.com/world/china/090529/chn0905290933000-n1.htm

 「惨殺された2000万人の同胞のため」

 →2009年05月24日、「津田左右吉 『支那思想と日本』 から②」
 〈http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/e/83f094ec402f981eae0e9c01bb4f5e29

 支那思想は支那人に特殊な方法による理説から成立ち、その理説は事物の表面上の知識を外面的につなぎ合はせるところにその特色がある。

 日本人、日本車、日本つながり。昔の日本人、今の日本人、日本人つながり。全部一緒。

 馬鹿はお断り。

権威に訴える論証と衆人に訴える論証と

2009年05月24日 | 思考の断片
▲「ウィキペディア」、「権威に訴える論証」項 (部分)

 権威に訴える論証(英: Appeal to authority、argument by authority)とは、権威、知識、専門技術、またはそれを主張する人物の地位などに基づいて、真であることが裏付けられる論理における論証の一種。ラテン語では argumentum ad verecundiam(尊敬による論証)または ipse dixit(彼自身がそれを言った)。宣言的知識を獲得する方法の1つだが、論理的には主張の妥当性は情報源の信頼性だけから決定されるものではないため、誤謬である。この逆は人身攻撃と呼ばれ、発言者の権威の欠如などを理由にその主張を偽であるとするものである。

 中国は権威に訴える論証()が正当な論理とされる社会である。人身攻撃が多くかつ激しいのもおそらくはこれが理由。

  :聖人曰く・孔子曰く・マルクス曰く・レーニン曰く・スターリン曰く・毛主席曰く・総書記曰く・指導者曰く・党曰く等々。

 さらには、衆人に訴える論証もまた、中国においては正である。多数がそう考える、言う、振る舞うから、それは真であるという思考。
 ここで考えるべきは「天命」=「民衆の意志」の伝統か。

 天の視るは我が民の視るに自(したが)ひ、天の聴くは我が民の聴くに自ふ。 (『書経』「泰誓」中)
 民の欲するところ、天必ずこれに従ふ。 (『書経』「泰誓」上)

 天は言(ものい)わず。行ないと事とを以てこれに示すのみ。 (『孟子』「万章」上)
 これを天に薦(すす)めて天もこれを受け、これを民に暴(あらわ)して民もこれを受く。 (『孟子』「万章」上)

 つまり天命に従うとは衆人に訴える論証に他ならない。
 だが日本ではこの論法が誤謬であること、権威に訴える論証に同じい。

 西洋の論理学は形式論理学を発達させたが中国の論理学は意味論方面に発達を遂げただけの違いに過ぎないという加地伸行氏の指摘が正しいとしても、一般の日本人と中国人の間では対話が著しく困難という現実の問題は依然としてそこにある。彼らの未開な思考様式にこちらが合わせるわけにはいかない。

加地伸行 『中国人の論理学 諸子百家から毛沢東まで』 から

2009年05月24日 | 抜き書き
 現代の記号論によれば、記号論(広い意味の論理学)には、三つの領域があるとする。すなわち、(一)記号と対象との関係を扱う意味論(semantics)、(二)記号とその使用者との関係を扱う語用論(pragmatics)、(三)記号と記号との論理的結合の関係を扱う結合論(syntactics)である。いわゆる伝統的形式論理学や記号論理学などは、(三)の結合論の領域に属する。これは〈狭い意味の論理学)である。
 この記号論としての議論、広い意味での論理学上の議論が、春秋戦国時代に、さまざまな形で開花していたのである。
 ところが、よく人はいう、中国には論理学は存在しなかった、と。この意見は正しいか。それに答えるには、その「論理学」の意味を確かめねばなるまい。もし、広い意味での論理学。すなわち記号論の意味としてならば、この意見は正しくない。また仮に、狭い意味での論理学、主として伝統的形式論理学(アリストテレス体系論理学)の意味ならば、ある程度は正しい。とはいうものの、それはあまり意味のある意見とは思えない。
 というのは、西洋における伝統的形式論理学がアリストテレスを源にして完成したとはいうものの、アリストテレス以前においては、別に体系的というような状態ではなかった。前述の春秋戦国時代のときのように雑多な議論がいろいろとあっただけである。それが、アリストテレスによって、伝統的形式論理学、いいかえれば、結合論という方向に進められ、アラビアを経て中世を通じて体系化されたということなのである。
 一方、中国ではどうであったか、というと、アリストテレスよりすこしあとぐらいに生きていた荀子らによって、それまでいろいろな方向に向かう可能性を持った状態が、はっきりと意味論的な方向に進められ、それが後に受けつがれていったのである。そのため、伝統的形式論理学のような内容、いいかえれば結合論的内容が未熟になった、ということにすぎないのである。 (「第二章 古代中国人の論理学意識」、本書49-50頁)

(中央公論社 1977年1月初版 1985年1月4版)

津田左右吉 『支那思想と日本』 から②

2009年05月24日 | 抜き書き
 一体に支那の思想家は、啻に反省と内観を好まないのみならず、客観的に事物を正しく視ようとつとめることが無い。なほ彼等の思惟のしかたを見ると、それは多く連想によつて種々の概念を結合することから形成せられ、その言説は比喩を用ゐ古語や故事を引用するのが常であつて、それに齟齬と矛盾があるのも、相互に無関係な、或は相反する、思想が恣に結び合はされてゐるのも、之がためであるが、今人の眼から見てさういふ論理的欠陥のあることは、支那の学者には殆ど感知せられていない。或はまた五行説などに於て最も著しく現れてゐる如く、一定の図式にあらゆる事物をはめこむことが好まれるが、これもまた一々の事物の本質を究明せず何等かの類似点をその外観に求めることによつてそれらを結び合はせるのであり、畢竟、同じ考へかたから来ている。 (「日本は支那思想を如何にうけ入れたか」、本書25頁。原文旧漢字、太字は引用者)

 その実、支那思想は支那人に特殊な方法による理説から成立ち、その理説は事物の表面上の知識を外面的につなぎ合はせるところにその特色がある。実践を目ざす教でありながら常に現実から離れ、或はそれを無視してゐるのも、一つはかういふ思惟のしかたから来てゐよう。思惟が極めて放縦になり、或は強ひて一定の型にはめこまれるからである。彼等に批判的精神がなくその能力が無いのも、論理的な頭脳が無いのと現実を直視し事物の本質を究明することができないこととに重要なる理由があろう。 (「日本は支那思想を如何にうけ入れたか」、本書26頁。原文旧漢字、太字は引用者)

(岩波書店 1938年11月)

中村新太郎 『孫文から尾崎秀実へ』

2009年05月23日 | 東洋史
 ソ連では、スターリンの死後、ゾルゲの名誉回復がおこなわれ、一九六四年十一月五日、最高ソ連英雄勲章をおくられた。日本では、尾崎秀実の評価は、三十年後のこんにち、なお定まったとはいえないが、中国人民との恒久の友好と平和のためにたたかったかれの業績は、けっして没することはないであろう。 (「尾崎秀美とゾルゲ事件」 本書315頁)

 ゾルゲと尾崎が逮捕されたのは日本で諜報活動を行い、当時の日本の法律を犯したからであり、裁判の結果、国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反によって死刑となったのである。ゾルゲがソ連で英雄になったように、尾崎は、中国では英雄かもしれない。だが日本においては尾崎秀実はスパイであり、犯罪者であり、そしてそれだけでしかない。
 スパイであり犯罪者であった彼の諜報活動と犯罪が、なぜ「業績」なのか。「中国人民との恒久の友好と平和のためにたたかった」からか。もしそうであるとするなら、「中国人民との恒久の友好と平和のため」であれば、日本の法律は破っても良かったのか。あるいはそもそも無効ということなのか。よく分からない。そしてこの著者は、この本が書かれた1975年でもやはり、「中国人民との恒久の友好と平和のためにたたか」うのであれば、コミンテルンのスパイになるのも、日本の法律に違反するのも、「業績」になると考えていたのだろうか。ここは章および全体の結論なのに、「日本では、尾崎秀実の評価は、三十年後のこんにち、なお定まったとはいえないが」などと、奥歯に物の挟まったような書き方なので、真意がいまひとつ掴めなくて困る。

(日中出版 1975年5月)

佐藤慎一郎 『近代中国革命史に見る酷烈とさわやかさの中国学 中国人と日本人の人間原像』 から

2009年05月23日 | 抜き書き
 孟子の教えのように、中国民族の生んだ政治哲学は、一つもなくなっておりません。中国民族のすばらしい英知・思想は、現在も健全です。こうした中国民族の先哲が生んだ哲学が健全である限り、中国民族には未来があるというのが、私の見方でございます。(略)
 一般民衆の生き方は、「上善は水の若(ごと)し」の一句に尽きましょう。これは老子の言葉です。一番良い生き方は、水のように生きることだ、という教えです。
 水の特性の第一は、水は万物に恩恵を与えておりながら、少しもそれを誇りにしたり、手柄を他と争ったりするようなことは、ありません。第二に、人間は少しでも上に行きたがる。少しでも多くの金を儲けたい。少しでも上の地位に就きたい。ところが、水は下へ下へと、しかも無理せずに流れていきます。しかし水は水の本性に徹して下へ行くのですが、決して卑屈になるようなことはない。第三に、水は、澄んだ清い水でも、濁った水でも、決して他を排斥するようなことはない。だからこそ、一滴が二滴、三滴となり、谷川の流れとなる。小川・大川となり、ついには大海のような大きな存在となり得るのです。その間、水は少しも無理はしない。穴があれば、その穴を埋め尽くして、余裕がないかぎり、穴を出て流れてはいかない。無理はしない。卑屈になることも、ない。水の本性に徹して生き通している。これが大体八割を占める農民の生き方と言ってよいでしょう。
 それでは都会人の生き方は、どうでしょう。
 都会には知識人が多い。「智慧出て大偽あり」(老子)です。智慧があるから、他方、偽りも生まれてくるのです。鶏も犬も、嘘はつきません。嘘をつくのは、人間だけです。知識人ほど、巧妙な嘘をつきます。
 特に現在の大陸では、知能教養の比較的足りない無産階級が、無限の権力を壟断しているのですから、そうした無法社会で知識人が生き通して行くためには、一つの方法しかありません。それは「逢場作戯」です。その場その場の情況にあわせて、芝居の台詞を言い、芝居のしぐさをやるという意味です。これは蘇東坡の言葉です。現在の大陸では、党員を含めて、嘘をつかなければ生きていかれないのです。
 中国知識人の中で、最も巧妙卑劣な嘘つきは、郭沫若でしょう。私は今、彼の資料をここに持って来ていますが、恐ろしいほど嘘つきの名人です。だから中日友好協会の名誉会長をさせられていたのでしょう。郭沫若が死んだら、日本では各地で「郭沫若先生を偲ぶ会」などと称して、盛んに「日中友好行事」を挙行していましたね。中国人は皆笑っているのです。 (本書39-41頁、太字は引用者)

(大湊書房 1985年3月)

高取正男 『日本的思考の原型 民俗学の視角』 から

2009年05月22日 | 抜き書き
 ヨーロッパやアメリカでは個室と鍵を重視するが、個人用の食器という点では意外と無頓着である。反対に日本人は個室をもたないかわり、個人用の食器につよい執着をしめしてきた。両者のあいだに存在する差異は、なにをもってプライバシーの象徴とみなすかという文化の型の問題だけで、近代以前の伝統的な社会での個人意識に、本質的なちがいとか程度の差はなかったとみるべきである (「第一章 エゴの本性」、本書20頁)

(平凡社版 1995年3月)

司馬遼太郎/山崎正和 『日本人の内と外』 から

2009年05月22日 | 抜き書き
山崎 たしかに日本人は一方では数の子みたいな群居性をもっていますけれども、その反面、個物への関心が裏にあるために、趣味ということがかなり問題になって、同時にそれが技術尊重の精神に結びついて、半分だけですけれども、近代的個人主義につながる要素がある。それから商業道徳というものがかなり早い時期に生まれていて、商売人は本質的にうそをつかない人間と考える風潮がある。(略)  こういう要素を重ねていきますと、日本人はまず七割くらい西洋人です。しかも近代の西洋人だと言える。ところが、実際には、西洋人と大きな違いがあるのは当然で、まず一神教というのは、日本人にはまったくわからない。ある一つの原理からすべてを説明するというようなことは、どうでもいいと思う国民です。しかし、それじゃ合理的でないかというと、そうでもなくて、合理主義にもう一つのタイプがあるわけですね。つまり一つのものと別のものとに共通の要素を見いだして、そこに二つだけのあいだの共通の原理を見いだす。三つ目が出てくると、この三つ目を加えてまたその共通の原理を広げ、四つ目、五つ目とだんだん広げていく。そしてこの範囲だけは合理的に理解できるわけです。しかし、世界の全体がどうなっているか、ということはわからないし、また問題にもしない。日本人にはこういふうな合理主義があるので、事実、その合理主義で十七世紀の西洋人がかなりへこまされたわけです。 (「Ⅴ 日本人の自己表現」、本書170-171頁)

(中央公論新社中公文庫版 2001年4月)

吉川幸次郎 『支那人の古典とその生活』 から

2009年05月21日 | 抜き書き
 支那人の(思考)方法は或る程度まで帰納的であるが、或るところまで行くとその帰納は止まつてしまひ、演繹が始まるといふことであります。即ちこの民族の方法は、元来は非常に帰納的であります。先例を尊重するといつても、尊重する先例は単に「五経」ばかりかといふと、必ずしもさうではない。「君子は多く前言往行を蓄へる」で、多くの事実を知り、それから道理を抽出して行かうとする。その点は非常に帰納的でありますが、その帰納は、「経」の言葉まで来ると、そこで行き止まりになり、そこから演繹が始まるといふことは、単に自然科学を貧困にしたばかりではなく、過去の支那人の生活における大きな弱点であります。これはやはり古典の過度の尊重から来たもののやうに思ふ。 (「支那人の古典とその生活」、本書141頁。原文旧漢字。太字は引用者、以下同じ)

 勿論、如何なる民族においても、古典は尊重さるべきであります。「五経」の中に示されてゐるものが、支那人にとつて重要なものであることを、私は否定するのではありません。その中には永久に変わらざる道理を、多分に含んでゐると考へます。殊に支那人にとつてはさうでありませう。しかしながらそれは道理そのものではないといふことを、まづ支那の人に考へて貰はなければならない。もし既に幾分かは考へられてゐるとするならば、もつと一生懸命に考へて貰はなければならぬ。そうして道理は「五経」よりも更に高いところにあり、その最もよき具現が「五経」であるといふことにならなければならない。 (同上、本書149頁)

 その為にはむしろ暫く支那人に、「五経」から離れて貰ふことが必要であらうと、私は考へるのであります。(略)即ち道理を単に「五経」にのみついて考へずに、暫く「五経」を離れて、道理そのものに対する思索を進める為には、哲学が必要であります。また人間の言葉におき換へられた自然を、自然そのものであるとする誤解を除く為には、一度「五経」を離れて、直接に自然そのものに眼を見開いて貰はなければならない。その為には自然科学こそ必要でありませう。更にまた自然科学によつて飽くなき帰納を知つてほしい。よい位なところで止まる帰納ではなくて、飽くなき帰納を知つてほしいのであります。 (同上、本書149-150頁)

(岩波書店 1945年10月第二刷)