書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Andy Chang 「AC通信 No.698 (2018年06月26日発行) サヨクの横行するアメリカ」

2018年06月30日 | 政治
 http://melma.com/backnumber_53999_6701101/

 副題:「(他人の自由を妨害する自由はない)」

 サヨクのアメリカは二極化して、暴力を容認、正当化する言論がメディアを賑わしている。アメリカは野蛮国家になりつつある。サヨクは人間社会の最低限度の礼儀さえ守らず、お互いの自由を尊重せず、自由を叫びながら他人の自由を妨害するような国になり下がったのである。

 それは我が国のリアルあるいはネット世界のように(左右一方に限らぬところは違うようだが)、「暇潰し」「憂さ晴らし」「八つ当たり」「面白半分」「内輪受け」、そして「問題になったらしらばっくれつづければそのうち逃げられる」からかどうか。
 魯迅が憤懣を籠めて言うところの、請求書を突きつけられても「これが、私の請求書かね?」と言ってただまじまじと相手を見返しているだけの人々。


エイモス・チュツオーラ著 土屋哲訳 『やし酒飲み』

2018年06月29日 | 文学
 出版社による紹介

 「だ・である」調と「です・ます」調がランダムに入り交じる不安定きわまりない文体(訳文だけでなく原文〔英語〕がそうらしい)。それでいて、ペン先が軸よりも前(未来)に位置し、そのままそれ以外のすべてを引っ張ってぐんぐん疾走してゆく感じは、石川淳の作品の読中感に類似する。これとは反対に、ペン軸を頭にし、ペン先を後に引きずりつつ、前もって整頓準備されたものを紙の上に圧して書き付けさせているというふうの、鈍重で、それでいていかにも予定調和な感じは、まるでしない。

(岩波書店 2012年10月)

佐々木毅先生の『よみがえる古代思想』(講談社学術文庫)を読んでいると、・・・

2018年06月28日 | 思考の断片
 佐々木毅先生の『よみがえる古代思想』(講談社学術文庫)を読んでいると、十七世紀に近代哲学から目的因が消えていくという指摘がある(114頁)。この時期に「自分/我」という存在を指す語が例えば英語ではobjectからsubjectに変わり(いわば視角が反転し)、そしてこれも英語だが、いくつかの形容詞の意味が、外見のそれ、もしくは他者から見える状態の形容から、内面の、その原因となるもとの状態(=作用因)を形容する意味へと変わるのもたしかこの頃の筈だが、何か関係はあるのだろうか。

 記憶に頼っての思考のため、あとで改めて書き直す。

考えてみれば「塘」という字は不思議で、・・・

2018年06月28日 | 人文科学
 考えてみれば「塘」という字は不思議で、もともと堤防を意味していた(土偏であることに注意)のが、そのうちその堤防で防ぐもしくはせき止める対象の水、とくに溜まっている水(池や湖、のち風呂屋の大風呂も)をも、囲いごと示すようになった。引申義といえばそれまでだが、換喩としても理解できる。

米盛裕二 『アブダクション 仮説と発見の論理』

2018年06月28日 | 人文科学
 出版社による紹介

 アブダクションとは所謂“アイデア”もしくは“インスピレーション”というものを、「なんでそれを思いついたんかはわからへんけど、それで目の前のこれを説明できるやからそれでええやないか」を、「理屈は通らへんけどそれでええやんありにしよ」と認めることであるということが、ようやく理解できた。「ちゃんと説明できてることについてはきっちり検証して確かめてな」という但し書き付きで。

 付けたり。アブダクションというものは想像力、ひいてはその人の創造力に係わるものでもあると私は考えているが、結局、ある人にオリジナリティがあると認められる場合、そのオリジナリティのメカニズムは分からない、分からないから措いて触れないということかというふうにも、この論旨は理解しようと思えばできる。

(勁草書房 2007年9月)

平川祐弘先生の『デカメロン』解説で、アーサー・ウェイリーが用いた・・・

2018年06月28日 | 人文科学
 平川祐弘先生の『デカメロン』解説で、アーサー・ウェイリーが用いた二つの翻訳手法への言及があり、先生ご自身の同作翻訳と俱に大いに裨益さる。ウェイリーはこの対蹠的な二手法を、おそらく対象の性質によって意識的に使い分けたわけだが、それぞれを方法論的に確立させていたのであれば心強い。


『鳴門秘帖』が山本耕史さんの法月弦之丞でリメイクされていたとは・・・

2018年06月28日 | 
 『鳴門秘帖』が山本耕史さんの法月弦之丞でリメイクされていたとは知らなかった。田村正和さんの時に少し覧ている。原作も読んだがあまり憶えていない。三田村鳶魚翁には、生半可に江戸の知識を仕入れているのがかえっていけない、嘘がより目立つと酷い謂われ様である。 …

ヘッセ『荒野の狼』を里村和秋氏の日本語訳で読む。・・・

2018年06月28日 | 
 ヘッセ『荒野の狼』を里村和秋氏の日本語訳で読む。「それは彼らではなく時代の誤り」と言いながら、ワーグナーとブラームスを「あまりの過剰」「あまりに浪費」と、とどのつまりは似たもの扱いして、大笑いしながら小馬鹿にしまくるモーツァルトのパートは、三ツ矢雄二氏に朗読して貰いたい。ドイツ語はわからないながら、はたしてそれは翻訳だけの印象かどうかと想像してみるのは楽しくもある。

「三和人材市場」のNHKドキュメンタリーを覧た。・・・

2018年06月28日 | テレビ
 「三和人材市場」のNHKドキュメンタリーを覧た。いろいろな地方(=方言地域)から来た人たちからインタビューを取っているが、思ったほど普通話の訛りがきつくない。あと、主人公格の青年が道を歩いてどこかへ行くのを追いかけて撮影する形のカメラが、彼が途中ネットカフェに寄ったとき、どういうわけか彼の入ってくるのを店の奥から撮している構図のシーンがあった。むかしのなにやら探検隊のようだと思った。

福本勝清 「アジア的生産様式論と日本の中国史研究」

2018年06月24日 | 東洋史
 『明治大学教養論集』370、2003/3掲載、同誌51-89頁

 再読
 ①家父長的家内奴隷制の議論は理論的に不十分で最初から無理があった。
 ②「総体的奴隷制」の「奴隷」も「奴隷制」も実を言えば比喩だった。
 ③個別人身支配体制の議論は世界史の基本法則における最初の階級社会としての奴隷制の一つという意味では家父長的家内奴隷制や総体的奴隷制と変わらない、増淵竜夫には基層レベルでの地域社会における自立的な秩序形成を否定するような議論は根本から誤っているし名称がミスリーディング(金谷がここで代わりにさらに一歩踏み込んで言えば扇動的)だと、当時から酷評されていた。

 以上、金谷の関心のあるところだけを抄約した。もともと増淵論を除き、前提と結果が同じ議論ばかりで史料はその最初から決まった結論を決まったように探して証拠にするために使われているとしか見えなかったので、まったく興味はなかった。