書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「経済学に未来はあるのか」池田信夫blog

2018年08月31日 | 社会科学
  2018年08月25日01:23

 私の学生時代にはもう経済学は終わりだと思われたが、1980年代にはゲーム理論で救われた。90年代以降は行動経済学や実験経済学などが出てきたが、科学としては「収穫逓減」だ。はっきりいって、アカデミックな学問としての経済学の未来は明るくない。
 だが社会人の基礎知識としての経済学の必要性は高まっている。


よくわからない。経験的事実を記述する学問すなわち経験命題の集まりであることにおいて物理学も経済学も同じである。その経験命題が否定されたら経験的事実とこれまで主張していたことからして事実ではなかったということになり、つまりその上に成立する体系たる学問としてそもそも終わりである。そのようななかにも事実の欠片はあるという意味だろうか。


カントの『永遠平和のために』を日本語版とこのたびふと英語版で読み比べてみたら・・

2018年01月07日 | 社会科学
 カントの『永遠平和のために』を日本語版とこのたびふと英語版で読み比べてみたら、かなりの懸隔を認めた。私にとっては後者のほうが文意を理解しやすい。たとえば「支配の形式」よりもthe form of sovereignty、「統治の方式」よりも(これはまだそれと分かりやすいが)、the form of governmentといったふうであるので。
 ロシア語版や漢語版では、どうなのだろう。

ウェーバー著 木全徳雄訳 『儒教と道教』

2017年12月27日 | 社会科学
 出版社による紹介

 第六章「第二節 自然法と形式的法論理との欠如」と「第三節 自然科学的思惟の欠如」に頷く。というか、基本的な材料を揃えれば、西洋人ならこのテーマを設け、こういう議論を当然組み立てるのではないかと思える。
 あと、訳者がウェーバーの思想を理解するうえで重要だと判断した術語にはすべて訳語の下に原語を併記する形式が取られている。上級者・専門家をも視野に入れての翻訳スタイルだと思うが、すこし読みにくい。

(創文社 1971年9月)

マックス・ヴェーバー著 脇圭平訳 『職業としての政治』

2017年10月26日 | 社会科学
 出版社による紹介

 心情倫理家はこの世の倫理的非合理性に耐えられない。彼は宇宙論的(コシュミッシュ)な倫理的『合理主義者』である。
 (ワイド版92頁)

 “倫理的合理主義”とは面白い。責任倫理とは結果の“責任”であり“結果”とは客観的な事象事実のことだが、それを無視する「合理主義」だと言う。ならばその“理”とは何ぞ。

 心情倫理と責任倫理を妥協させることは不可能である。またかりに、目的は手段を神聖化するという原理一般をなんらかの形で認めたとしても、具体的にどのような目的がどのような〔原文傍点〕手段を神聖化できるか、を倫理的に決定することは不可能である。 (92-93頁)

 さらに。以下は私がこのところ『カラマーゾフの兄弟』同条のことをしばしば考えまた書いているので、その名が出てきた偶然に感じて。私は同条をかならずしもその面からとらえていなかった。

 諸君の中でドストエフスキーを御存じの方なら、この問題が的確に展開されている例の大審問官の場面〔略〕を覚えておられるであろう。
 (92頁)

(岩波書店 1980年3月)

松浦好治 『法と比喩』

2017年06月01日 | 社会科学
 出版社によるオンデマンド版の紹介。

 問題解決のプロセスで登場する比喩、類推、擬制が法的世界で中心的な役割を果たしていることを示す野心作です。
 (「内容」)

 元の紙の版で読んだ。非常に興味深い。この分野の確たる該分野の専門家がこの主張を前面に押し出しているということが、私個人にとってはだ。
 本書、「第一章 経験と言葉の間」にこうある。

 比喩を変えるということは、ものの見方を変えることにつながる〔原文傍点〕。対象に関する新しい比喩の導入は、場合によっては、ものの見方を一変させる可能性をもっているのである。
 (30頁)

(弘文堂 1992年5月)

梶井厚志 『戦略的思考の技術』

2017年04月14日 | 社会科学
 出版社による紹介

 土俵を明確に切りましょう、相手の手自分の手の5w1hの分析結果をできるだけ数値化しましょう、おなじく相手とこちらの手の効果の評価も同様に、判断からあらゆる価値を放逐しましょう、そうすれば「読み」は「戦略」となり「駆け引き」は「ゲーム」となるのです、といったところだろうか――なにやら兵棋演習に似ているような。

(中央公論新社 2002年5月)

Бикамерализм (психология) — Википедия

2017年03月10日 | 社会科学
 https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%91%D0%B8%D0%BA%D0%B0%D0%BC%D0%B5%D1%80%D0%B0%D0%BB%D0%B8%D0%B7%D0%BC_(%D0%BF%D1%81%D0%B8%D1%85%D0%BE%D0%BB%D0%BE%D0%B3%D0%B8%D1%8F)

  Одиссеей существует качественное различие - герои Илиады не занимаются интроспецкией, не обнаруживают наличия у них внутреннего мира сознания. Таким образом люди того времени - полусознательные автоматы, которые в своих решениях полагаются на направляющие «голоса», а статуэтки, архитектура, домашние алтари и проч. - ни что иное, как помощь для таких галюцинаций. (下線は引用者、以下同じ)

 英語版日本語版よりもこちらのほうがわかりやすいかも。分量的にもコンパクトであることだし。

  Вследствие усложнения социального мира людей в ходе катастрофы бронзового века (по сравнению со строго иерархическими обществами до того) «голоса» стали не только не нужны, но даже мешать. С этим связан конец (крах) бикамерного сознания и возникновение привычного нам субъективного сознания. Но людям, еще слышавшим голоса богов, еще некоторое время находили применение в качестве оракулов и т.п. Такие же явления, как гипнотизм, глоссолалия, шизофрения, согласно этой теории, являются ни чем иным, как отголосками того времени. 

Culture and Social Behavior, "Book Review" by Lothar Katz

2017年02月28日 | 社会科学
 http://www.leadershipcrossroads.com/mat/Culture%20and%20Social%20Behavior.pdf

 この書評で評されているHarry C. Triandisによる同著を、昨年前半期の大学院講義で参考資料として取り上げた。
 Triandisは、文化により認められる論理的あるいは思考上のパターンの違いを、「集団主義的collectivist」か「個人主義的individualistic」かといった、彼自身の創案にかかる文化間の性質の違いに原因づける(同著190-191頁)。だが“論理”そのものはlogic, logicalという一つの(=普遍的な)概念きりない。そしてそのlogicとlogicalは、“個人主義的な”北ヨーロッパおよび北米社会に見られる思考と論述のパターンを指す。
 logicalだからindividualisticなのか、individualisticだからlogicalなのか。そして文化は異なっても"individual"の存在形態は万国共通で、"self"はみな"self"であるらしい。このreviewもそうだが、原著も議論の前提となる諸概念の適用妥当性について何等の検討も加えていない。