書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

杜石然ほか編著 川原秀城ほか訳 『中国科学技術史』 上下

2010年02月28日 | 自然科学
 2005年03月25日より再読。

 近代中国の科学技術が長期にわたって立ち遅れた根本の原因は,中国の長期の封建制度の束縛のいたすところにあり,近代科学がヨーロッパにて誕生した根本の原因も,新興の資本主義制度がまずヨーロッパにて起こった結果にほかならない,というのがそれである。 (「結語」 本書647頁)

 感想変わらず。観察・仮説・検証という科学的思考様式のうち、仮説と検証は当局の禁圧をこうむりかねないが(たとえば我が国の平賀源内や渡辺崋山あるいは高野長英の悲劇はここに胚胎するであろう)、観察は個々人の興味と意志と能力次第である。それができないのは他人のせいではない。
 それにしても驚くのは、『天工開物』と同様、この書には自然に対する興味も関心もまるでないことだ。朱子学・陽明学の主観主義にどっぷり漬かった明代の宋応星はまだ仕方がないですむが、現代中国の杜石然らに歴代中国人の自然観やその自然改変・破壊についての注意が全くみられないのはどういうわけであろう。

(東京大学出版会 1993年2・3月)

宋応星撰 藪内清訳注 『天工開物』

2010年02月28日 | 自然科学
 明代17世紀の中国で編纂された、当時の産業・技術の百科全書なのだが、挿絵がひどい。機械や工程を写しているものの、デッサンもパースもなにもかも狂っていて、まるで子供の落書である。それ以前に描写の方法が粗末でいいかげんで、要は描くべき対象をまともに観察していないのだ。ただしこれは絵師の責任であって、著者の宋応星の与り知らぬことである。本文は相当――当時の中国のインテリゲンチャ一般の水準に照らして言えばだが――実証主義的である。

(平凡社 1969年1月初版第1刷 1994年10月初版第22刷)

John M. Allison 『Ambassador from the Prairie』

2010年02月28日 | 伝記
 副題「or Allison Wonderland」。

 叙述が平板で読みにくい。通り一遍で表面的な書き方のためであろう。またそれ以上に、文章の構成上必須の情報要素として書くべきことを、おそらくは諸々の配慮や事情からわざと落としている場合も多いせいと思われる。たとえば沖縄、第五福竜丸に関して。

(Houghton Mifflin, Boston, 1973)

Robert H. Ferrell 『Truman』

2010年02月28日 | 伝記
 副題「A Centenary Remembrance」。

 トルーマンが第21空軍に原爆の使用許可命令を与えたのは1945年7月26日(ここでは言及されていないがポツダム宣言の発表された日)となっている。しかし事実はその前日25日であった。
 しかも以下のとおり、それに続けてポツダム会議が終わったのは8月2日で、広島への最初の原爆投下はその4日後だったと書いてあるのだが、それがどうした。曖昧模糊として文意把み難し。

  On July 26 he gave the Twentieth Air Force permission to use the weapons when available, so long as it was after he had left Europe. The Potsdam Conference ended August 2 and the first bomb went down on Hiroshima four days after. ("LONESOME HARRY", P.145)

 ただしこの本では同時に、もしトルーマンが原爆を使用しなかったら、その研究開発に20億ドルもかかったことを理由に、間違いなく弾劾されただろうとも書いている(146頁)。さらに、年月が経つにつれてトルーマンは、原爆の使用は25万人の米国人の命と25万人の日本人の命とを救ったという正当化の論理を次第に強調するようになったとしている(同頁)。つまり当初はそうでなかったという意味であるが、それにしてもなんか舌足らずというか、奥歯にものの挟まったようなというか。

 なおトルーマンは、公私の別を峻別する、非常に廉潔な性格だったらしい。トルーマン研究の第一人者とされる著者による本書トルーマン伝が特筆する彼の美質は、そこにある。

  Throughout the period of his administration, Truman refused to accept any gifts that were not a matter of protocol. Gifts to the office were in acceptable form as far as he was concerned, and some of those were housed in the Truman Library today, but he insisted that, for example, trips for the family be paid for by the Trumans themselves, not by the taxpayers. His lengthy correspondence to Bess arose partly from his unwillingness to run up large telephone bills, and when he did call her in Independence, either from Washington or from posts along his official journeys he would often call collect. ("LONESOME HARRY", P.140)

 日本人好みの律儀で謹直な人物像ではありそうな。

(The Viking Press, New York, 1984)

ヤン・ウェルツル著 中垣虎児郎訳 『極北生活三十年』

2010年02月28日 | 伝記
 『世界ノンフィクション全集』4、所収。本巻の「解説」は今西錦司氏。
 その今西氏が、同じ探検記でも物語と報告書の二種類がある、ウェルツルのこの『極北生活三十年』は物語(=思い出話)だから、読んで面白いのは当たり前だと喝破しているが、それでもやはり、この19世紀末から20世紀初めにかけての極寒のニューシベリア島での生活記は、同巻所収のチャンピオン『ニューギニア探検記』やレヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』よりも面白い。あまりにおもしろいので、本が出た当初、彼の故郷チェコの人々は、カレル・チャペックがふざけて偽名で書いた嘘話だと思ったらしい。

(筑摩書房 1960年7月)

ポール・ド・クライフ著 秋元寿恵夫訳 『微生物の狩人』

2010年02月28日 | 自然科学
 『世界ノンフィクション全集』2、所収。「編集」として、中野好夫・吉川幸次郎・桑原武夫三氏の名が挙がっている。本巻の「解説」は桑原氏。
 たとえば板倉聖宣『かわりだねの科学者たち』(仮説社、1987年10月)にくらべて発想と視点がはるかに文系臭いのはなぜでしょう。ポール・ド・クライフ(1890-1971)って、ミシガン大学で博士号まで取った、生粋の微生物学者のはずなんだが。それとも当時の微生物学者って、博物学者やあるいは我が国の本草学者のようなもので、採集と分類ばかりであまり科学する心とは関係がなかったのだろうか。

(筑摩書房 1960年5月)

趙紫陽著 河野純治訳 『趙紫陽極秘回想録 天安門事件「大弾圧」の舞台裏!』

2010年02月27日 | 政治
 共著者として、パオ・プー/ルネー・チアン/アディ・イグナシアスの名。

 民主主義だけではだめだ。民主集中制も民主主義のうちだからである。趙紫陽は、だから議会制民主主義の導入が必要だというのだが、そのあいだをつなぐ説明がない。なぜ議会制でないといけないのか、三権分立とはどういうことなのか。彼は本当に分かっていたのかしらん。

(河出書房新社 2009年12月)

坂野潤治/大野健一 『明治維新 1858-1881』

2010年02月27日 | 日本史
 木戸〔孝允〕派と板垣〔退助〕派の間には、専制政府に都合のよい憲法をまず制定するか、それより先に民撰議院を設立するかの優先順位の相違があった。/一年余の欧米滞在中に、木戸が皇帝権限の強いドイツの立憲君主制に強く惹かれたことは、すでに記した。言い換えれば、木戸は法と秩序の確立のために憲法を制定しようとしていたのである。これと反対に、板垣に議会の必要性を説いたイギリス帰りの小室〔信夫〕と古沢〔滋〕は、天皇制は前提にしつつも、一種の議会主権的な考えを抱いていた。憲法論が法と秩序を重視するのに対し、議会論はその変革をめざすものだったのである。 (「第一部 明治維新の柔構造 4 政策と政局のダイナミズム」 本書64・68頁)

 大久保利通を「富国派」、軍部や旧革命軍を「強兵派」と分類し、木戸の「憲法派」、板垣の「議会派」と、四派の四つどもえと見る図式の妥当か否かはわからぬが、すくなくとも板垣退助の自由党系の民権論者が大隈重信の改進党系に比べてどうして憲法制定に熱心でなかったのかはこれで説明がつく。

(講談社 2010年1月)

小林秀雄 「杭州より南京へ」(昭和13=1938年) から

2010年02月24日 | 抜き書き
 『小林秀雄全作品』 10、新潮社、2003年7月、154頁。

 夜、飯を食いに出ると、酒を呑み大言壮語しているのが必ず一人や二人いた。満洲に何年いたとか、北支は何処を歩いてみたとか、内地であくせくしている奴等には支那はわからぬ、とか、そういう話も、初めは物珍しく面白かったが、直ぐ厭になり可笑しくなった。要するに何処にでも転がっている大言壮語だくらいは初めから解っている事だし、彼等の厭らしさや滑稽さが何処から来るのか、自分で自分の感じの説明に苦しんだが、結局それは、彼等が文化というものの種子になる生活感情を失っていて而もそれに気が附かない、その感じではあるまいかと思った。渡り歩いているうちに、根柢の日常生活が擦り切れて、そこが腑抜けになっているのである。 

 場所は上海。“腑抜け”とは、言い換えれば根無し草のことかとも考えたが、ちょっと違うようである。根無し草とよばれる種類の人々は、己の生まれ育った文化(生活感情、日常生活の感覚)を、必ずしも失ってはいない。根無し草はコスモポリタンであり得る、しかしこの“腑抜け”は、そうはなれないだろう。同意語は、小林がしばらく下宿暮らしをした家の大家であるロシア人老婆がこころもとない英語でみずからを指して言ったという "somebody" (これは、おそらく "nobody" の意味で使われている)だ。