2005年03月25日より再読。
近代中国の科学技術が長期にわたって立ち遅れた根本の原因は,中国の長期の封建制度の束縛のいたすところにあり,近代科学がヨーロッパにて誕生した根本の原因も,新興の資本主義制度がまずヨーロッパにて起こった結果にほかならない,というのがそれである。 (「結語」 本書647頁)
感想変わらず。観察・仮説・検証という科学的思考様式のうち、仮説と検証は当局の禁圧をこうむりかねないが(たとえば我が国の平賀源内や渡辺崋山あるいは高野長英の悲劇はここに胚胎するであろう)、観察は個々人の興味と意志と能力次第である。それができないのは他人のせいではない。
それにしても驚くのは、『天工開物』と同様、この書には自然に対する興味も関心もまるでないことだ。朱子学・陽明学の主観主義にどっぷり漬かった明代の宋応星はまだ仕方がないですむが、現代中国の杜石然らに歴代中国人の自然観やその自然改変・破壊についての注意が全くみられないのはどういうわけであろう。
(東京大学出版会 1993年2・3月)
近代中国の科学技術が長期にわたって立ち遅れた根本の原因は,中国の長期の封建制度の束縛のいたすところにあり,近代科学がヨーロッパにて誕生した根本の原因も,新興の資本主義制度がまずヨーロッパにて起こった結果にほかならない,というのがそれである。 (「結語」 本書647頁)
感想変わらず。観察・仮説・検証という科学的思考様式のうち、仮説と検証は当局の禁圧をこうむりかねないが(たとえば我が国の平賀源内や渡辺崋山あるいは高野長英の悲劇はここに胚胎するであろう)、観察は個々人の興味と意志と能力次第である。それができないのは他人のせいではない。
それにしても驚くのは、『天工開物』と同様、この書には自然に対する興味も関心もまるでないことだ。朱子学・陽明学の主観主義にどっぷり漬かった明代の宋応星はまだ仕方がないですむが、現代中国の杜石然らに歴代中国人の自然観やその自然改変・破壊についての注意が全くみられないのはどういうわけであろう。
(東京大学出版会 1993年2・3月)