書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

井田進也 『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』 

2005年05月31日 | 日本史
 著者が編纂委員に名を連ねていた『中江兆民全集』(岩波書店)の編纂作業において、著者の編み出した使用語彙による著者識別法の適用の結果、それまで署名無署名を問わず兆民の手になるものと信じられてきた『東洋自由新聞』論説の多くが他人の作と認定されて全集収録から落とされてしまった。
 『中江兆民全集』におけるのと同じ識別法を井原西鶴の『好色』シリーズや『福沢諭吉全集』に適用した結果の報告が、この論文集(座談記録も含む)である。
 そしてこの研究書は、平山洋氏が『福沢諭吉の真実』(→2004年12月14日欄)を執筆する際に参考とした先行研究の一つでもある。
 
 この著者識別法で「脱亜論」に内容的に関連もしくは類似し、かつ従来福沢諭吉の作とされる『時事新報』の無署名論説を分析してみると、結果は以下になる。

  論説名                推定起稿者
 「外交論」                  福沢(自筆原稿が残存)
 「脈既に上れり」               高橋義雄
 「東洋の波蘭(ポーランド)」 (第一日) 高橋義雄
 「東洋の波蘭(ポーランド)」 (第二日) 高橋義雄
 「支那風擯斥すべし」            福沢
 「輔車唇歯の古諺恃むに足らず」     渡辺治
 「支那を滅ぼして欧州平なり」       高橋義雄
 「軍事支弁の用意大早計ならず」     高橋義雄
 「戦争となれば必勝の算あり」      渡辺治・高橋義雄
 「御親征の準備如何」            高橋
 「国交際の主義は脩身論に異なり」   福沢
 「脱亜論」                  高橋義雄(?) 
 
     (第二章「福沢諭吉――テクストの認定①」同書105頁の表より)

 高橋、渡辺はこの時期の『時事新報』の主力記者である。

“福沢がいくら元気だからとて、『時事新報』論説篇だけで全二十一巻中九巻を占めるのはいかにも多すぎる” (「あとがき」 同書367頁)

 岩波書店の『中江兆民全集』は全17巻(別巻1巻)で、無署名論説はそのうちの2巻だけだそうである。 
 福沢に固有な語彙や文体の特徴が摘出できて明らかに福沢が斧正を加えていると判断できる(つまり福沢その人の論説論旨と見なしてよい)のは、自筆であることが明白な「外交論」「支那風擯斥すべし」「国交際の主義は脩身論に異なり」を除けば、「脱亜論」だけになるというのが井田氏の結論である。
 この分析結果を見て真っ青になる福沢研究者や近代日本思想史家はあまた居るに違いない。しかし不思議なる哉、平山氏以外に賛同の声は聞こえず、さりとて誰かが公の席で反駁したとは耳にしない。現行の『福沢諭吉全集』(岩波書店)見直しが始まっているともとんと聞かぬ。日本近代思想史研究者はやはり、森銑三の「西鶴の真作は『好色一代男』のみ」説を賛成も反対もせずまさに黙殺した近世日本文学研究界の故事に倣っているのであろうか。

 もっとも『史学雑誌 2001年の歴史学界 回顧と展望』(山川出版社 2002年5月)には、さすがに言及がある。

“『中江兆民全集』編修に携わった井田進也氏が兆民研究と史料論を次々に出版した。『兆民をひらく』『二〇〇一年の中江兆民』『歴史とテクスト』(いずれも光芒社)である。なかでも『歴史とテクスト』は『全集』編纂の過程で培った(溝口雄三氏の発案による)「テクスト認定法」によって、「時事新報」所載の論説を分析し、これまで福澤のそれと信じられてきた諸論説(脱亜論発表前後、日清戦争前後)が弟子達の執筆であることを明らかにし、史料批判の重要性(恐ろしさ)をいやというほど教えた。これによって立論の根拠を失う福澤研究は数知れず、(活字)文献史学を生業とする研究者には最も深刻な問題を突きつけた書である。評者も又、暫くの間寝汗にまみれそうである” (「日本 近現代 三 政治史関係 1」、川口暁弘執筆、同書155頁)

 ただし『2002年の歴史学界 回顧と展望』『2003年の歴史学界 回顧と展望』には、支持もしくは反論の研究(論文・著書)についての紹介はない(『2004年の歴史学界 回顧と展望』はまだ出版されていない)。やはり臭い物には蓋で頬かむりを決め込んでいるらしい。寝汗も暫くすればおさまったのであろう。
 来月あたり出版されるはずの『2004年の歴史学界 回顧と展望』で、平山洋氏の『福沢諭吉の真実』(文藝春秋 2004年8月)が紹介されるか否か、紹介されるならばどのような評価を与えられるかが興味津々である。紹介されなかったら大いに嗤う。「最も深刻な問題を突きつけた書である」といった2001年度の台詞の繰り返しでも、やはり嗤う。

(光芒社 2001年12月)

西牟田靖 『僕の見た「大日本帝国」 教わらなかった歴史と出会う旅』 

2005年05月29日 | 東洋史
 第一章 ロシア(サハリン)
 第二章 台湾
 第三章 韓国
 第四章 北朝鮮
 第五章 中国(東北)
 第六章 ミクロネシア

 著者はサハリンで残留朝鮮・韓国人と日本人に出会い、台湾で日本人警察官が神として祭られる廟に詣り、韓国では竹島へ渡り元従軍慰安婦に会い、北朝鮮では日本によって建造された鉄橋がその事実を秘密にしつつ今も使われていることを知る。そして中国東北部では万人坑を見、ミクロネシアでは日本統治時代を懐かしむ声を聞く。
 著者は、「教わらなかった歴史と出会う旅」だったと韜晦しているが、4年をかけたこの旅を始めるに当たって、これらの地域と歴史について予め十分に知識を蓄えていたらしいことが文章の端々から窺える。(注)
 この旅行記のもっとも顕著な――そして素晴らしい――特徴は、徹底的に一個人としての視点で書かれていることである。著者は自分が国籍として日本人であること、日本文化の中で生まれ育ったという意味でも日本人であることを十二分に自覚している。だが彼は日本人を代表して振る舞おうとはしない。著者は、訪れた土地の人々の日本批判もしくは賞賛に対して一喜一憂しない。ただそれが当たっていれば同意し、違うと思えば反論する。日本人が過去そこで何をしたかを承知してはいるが、1970年生まれの自分が責任を感じて謝るのはおかしいと思っている。しかし自らが目の当たりにする日本軍の蛮行の跡、自らに直接ぶつけられる被害者の声には、激しい衝撃を受ける。

 ここから以下は、丸山真男『日本政治思想史研究』(今月26日欄)の続きになる。
 中国および韓国・北朝鮮においては、著者と現地で出会った人々との間でまともな会話がほとんど全くと言っていいほど成立しなかった。
 相手が西牟田氏の発言を全然理解しようとしなかったことに起因する。
 丸山真男が言う倫理原則と自然法則が一体化している朱子学の思考様式は、やはり今日でも中国人の――それから韓国・朝鮮人の――思考様式を強く規制しているようだ。「~である」と「~でなければならない」が認識において混同されている思惟では、己の内面の(あるいは自らの属する集団で共有されている)思考と異なる外界の現実に対しての反応は、「間違っている」「悪い」という価値判断および拒絶あるいは無視しかないだろう。これが個人によって程度の差があることはもちろん、そこから全く脱した人も存在することを弁えた上の感想であるのは言うまでもない。

(情報センター出版局 2005年2月)

 (注) この副題はちょっと変である。「教わらなかった歴史」とは学校で教えられなかった歴史、教科書に載っていない歴史というぐらいの意味かと思うが、もしそうならばである。現地でしか知り得ないもしくは体感しえない種類の物事はもちろんあるからそれはもちろん別として、たとえ学校や教科書で教えられていないことでも知りたいという意志さえあれば、それ以外の場所や手段で知ることができるはずである。まさに著者がそうであったようにだ。
 こんな副題を掲げていたら、表題だけ見た人は「だって教えてくれなかったんだもん」と子供のような駄々をこねる甘えったれのように著者を思い込みかねない。九仞の功を一箕に虧くで実に惜しい話である。
 この副題は表紙にはあるが奥付にはない。もしかしたら出版社が付けた賢しらかもしれない。

荒野泰典編 『日本の時代史』 14 「江戸幕府と東アジア」 

2005年05月27日 | 日本史
 個々の論文の筆者はまだ分かるとして、編者にも時代の全体像を自分で構築しようという気はないらしい。江戸時代初期といえばすでに近世だが『日本の中世』シリーズ(中央公論新社)と同じ匂いがする。
 しかし李氏朝鮮時代に東莱府釜山浦(現釜山市)の今は竜頭山公園となっている一帯に置かれていた草梁倭館が、東西700メートル、南北450メートル、面積約33万平方メートルという広大な規模のものであることを知ったのは収穫だった。常時500名ほどの日本人が滞在していたという。
 書中掲載されている当時の絵図面を見ると、敷地内には官庁の建物や付属設備だけでなく酒屋や蕎麦屋といった店舗がある。豆腐屋まである。

(吉川弘文館 2003年8月)

丸山眞男 『日本政治思想史研究』 

2005年05月26日 | 日本史
“さて茲に僅か輪郭だけながら概観された如き朱子哲学の体系的構成からして、われわれは如何なる特性を読み取ることができるであらうか。この点でまづ取り上げなければならないのは朱子哲学の根本観念をなす「理」の性格である。それは事物に内在しその動静変合の「原理」をなすといふ意味では自然法則であるが本然の性として人間に内在せしめられるときはむしろ人間行為のまさに則るべき規範である” (第一章「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」第二節「朱子学的思惟様式とその解体」 同書25頁。原文旧漢字)

 つまり外部世界を認識する際に現実と理想を区別しないということである。というより「である」がなくて「~であるべきだ」だけの精神構造と言った方がより分かりやすいかもしれない。 
 ところでこの現実と理想が区別されないという特徴は、これは過去のそれも朱子学に限っただけではなく、現在の中国人の思考様式においても大いに見られるものではなかろうか。

“単に自然が道徳に従属するのみでない。歴史がまた道徳に従属せしめられる。(略)朱子学的「合理主義」においてはその基準たる「理」が道徳性を有するため、(略)そこでは歴史はなによりも教訓でありかがみであって、「名分を正す」ための手段でしかない。そうした基準から離れて歴史的現実の独自的な価値は認められない” (同書、26頁)

 これは、只今現在必要とする部分の歴史だけが歴史ということである。つまり、中国における“歴史意識”“歴史認識”とは選択的(selective)な性質のものだということを意味する。

 最後になったが、丸山真男のこの研究は、近世以降の日本人――少なくとも知識人――の思惟において物理と道理、自然と当然の間に切断が起こった事実を論じるものである。

(東京大学出版会 1965年5月11刷)

宮崎駿 『シュナの旅』 

2005年05月25日 | コミック
 初版1983年6月。
 おそらくは現在の文明が滅びた後の遠い遠い未来、氷河がえぐった旧い谷にある小さく貧しい国の王子が、豊かな稔りをもたらす黄金の種を求めてはるか西のかなたへと旅立つ。谷には風が吹き、若者はヤックルに乗る。もちろんのこと、『風の谷のナウシカ』(1984年)と『もののけ姫』(1997年)の原型である。
 著者の「あとがき」で知ったが、もとはチベット民話らしい。

(徳間書店 2002年7月49刷)

皆川亮二 『D-LIVE!!』 10 

2005年05月25日 | コミック
 カダナ(カナダ?)大氷原をマーズ1・ハンビー・ローバーで走破するエピソードのほかは、級友にASEドライバーであることがばれかけるドタバタ編、死んだ主人公の父親とボスの百舌鳥との過去の因縁話といった、読む方にも作る方にも手軽なエピソードが続く。幕間劇といったところか。

(小学館 2005年6月)

エドウィン・ライシャワー著 國弘正雄訳 『ライシャワーの日本史』 

2005年05月24日 | 日本史
 この人でもやはり、一言で言えば日本異質論である。
 しかし以下は西洋もしくは白人の近代東洋観の一つとして記憶しておく価値があるだろう。

“(外部的情況に適応するための変革を正当化する手段として伝統的な王政への復帰のための革命という大義を使用できたことのほかに)明治維新が成功したいま一つの重要な要素は、指導者がゆっくりと、しかも実務的に事を運んだことで、その方が日本には適しているとみなしたからだった。背伸びを求められるような既成のイデオロギーがとくにあったわけではなく、国民や欧米列強の側の過大な期待という圧迫感もなかった。日本がなしとげるまでは、非西欧国家に近代化が可能だなどとは誰も信じてはいなかったのである” (第8章「近代国家への移行」 137頁)

“大日本帝国憲法は一八八九年二月十日、天皇から天皇の臣民たる国民に下賜されるという形で発布され、ついで一八九〇年には初の選挙が行われ、最初の国会が開かれた。予定を早まわること九年であった。だがこの憲法はあまりに保守的にすぎ、こんな憲法では日本の民主主義が失敗に帰すのははじめから運命づけられていたという解釈を、のちの歴史家は下してきた。/しかし当時の西欧の観察者は、日本の政治改革は勢いこみすぎていると評し、もっとゆっくりとしたペースで事を進めるべきだというのが多くの場合彼らの助言であった。しかも彼らが不可解に思ったのは、なぜ元老がもっと民主的な制度をつくらなかったのか、ということであるよりは、逆にどうして国民の選出になる代議員に同等な権能を与えてしまったのか、ということだった” (第9章「立憲政治と帝国」 147頁)

 以下はおまけである。

“(明治新政府の)指導者はなんの束縛も受けずに、物事を論理的に捉え、最初に基礎的なことに集中し、後になって困難であるがそれほど本質的でない段階へと進んでいったのであった。/まず法と秩序を確立し、通信手段を発展させ、高度教育の普及に先立って初等教育を徹底させ、さらに複雑で資金もかかる工業化に手をつける前に、農業の発展と軽工業の育成を心がけた。しかも彼らは間違っていることに気づけば、すでに手がけたものもさっさと放棄して、うまくいくまで新しいものを試してみるなど、試行錯誤を恐れない点で実務性に富んでいた。/不幸なことに、後になって近代化をはかったほとんどの国々は、日本のこうした体験をあるいは無視しあるいは読み誤ってしまった。確かにこれらの国々は日本がもち合わせていた数々の利点を欠いてはいた。だが彼らは近代化にあたって、わずか一夜のうちに工業化と、民主化ないしは共産化を企てたのだった。彼らは底辺からではなく、最上部から手をつけるというやり方を選び、教育にしても小学校や中学校を普及させるよりは、大学に力点をおき、産業面でも農業や軽工業ではなく、いきなり鉄鋼やジェット機の生産に手を染めるというありさまだった。国内の統一を手中にするより先に、世界の檜舞台で重要な役割を演じようとしたのである。日本がそれほどの混乱もなしに近代社会経済への移行を成功させた一大非欧米国家として、今日など他に類をみないのも、おそらくはこれが一つの主たる理由であろう” (第8章「近代国家への移行」 137-138頁)

 具体的な例を一つあげれば、明治時代の日本人は、1日24時間の西洋式の時間概念とそれに従った生活を毎日小学校に通って授業を受けることで学んだ(分秒に至るまでの時刻の正確な認識とそれを厳守する習慣は徴兵制下の軍隊生活で身につけたらしい)。

(文藝春秋 1986年10月)

瀬戸内寂聴/鶴見俊輔 『千年の京から「憲法九条」 私たちの生きてきた時代』 

2005年05月23日 | その他
 鶴見俊輔氏は『がきデカ』が好きだそうである。こまわりがこれからの日本人のあるべき姿だとさえ言っていたと記憶する。瀬戸内寂聴のような人と国家と社会のありかたや政治について話しあうということと併せて、私には理解できない氏の一面である。

(かもがわ出版 2005年4月)