書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

シリーズ『ロシア革命とソ連の世紀』(岩波書店 2017年6月~)についての初歩的感想

2017年12月07日 | 現代史
 昨日大学図書館で、同シリーズの第1・2巻を拾い読みしてきた。第1巻では自由主義史観の強い欧米よりも日本のほうがソ連をありのままに見、のち欧米で興ったリヴィジョニストの社会史派の視点を先取りできたところもあったという言う旨の議論があり、第2巻では第二次世界大戦末期のソ連参戦は、その事実を指摘することが過去においてネガティブキャンペーンとして使われたのであり、いまは日本側の対応のまずさに関心と研究の先をむけるべきだという議論がある。
 前者は大阪外大ロシア語科で冷戦期(ブレジネフ時代、ソ連のアフガン侵攻期)を過ごした身には、限られた時空の経験からながら噴飯物の戯言にしか思えず、後者は、おなじく岩波書店の『昭和史』以来変わっていないのかという呆然とした感想を抱く。
 亀井勝一郎氏の「今度の戦争で、ソ連の参戦といふ重大事実に対してなぜ批判を避けたのか」、「これは親ソとか反ソとは関係なく、国際法の上から是非を明らかにしておかなければならない問題である」という疑問と批判にはいまだ正面から答えるつもりはないらしい。

三谷邦明・小峯和明編 『中世の知と学 〈注釈〉を読む』

2017年12月07日 | 日本史
 中世の注釈の特徴は本文からの逸脱であると私は理解した。もしそうであるなら、この“逸脱”とは、こんにち現在の我々がみてそう判断するところの、作品として残された結果であるのか、それとも中世の注釈者自身がそれと認識、あるいは意図しつつ営んだ思惟の過程であるのか。これは同書の視座を私が理解しきれていないためか、それともこの区別はつけなくてもいいという立脚点か。

(森話社 1997年12月)

『二条河原落書』の「為中美物ニアキミチテ」の「為中」を・・・

2017年12月07日 | 日本史
 『二条河原落書』の「為中美物ニアキミチテ」の「為中」を、私が中学から持っている資料集では「不詳」としてあって、もらって同書を通読してそうなのかと思い込んで以後、そののち幾度かこの落書(らくしょ)を看たにも関わらず目と頭をすり抜けていたところ、たった今これは“イナカ”と読み「田舎」の意味であるとしかと知る。
 しかもこれは「田舎」の当て字ではなく、中世ではどちらも等しく通用する表記・表現であり、「為中」は廃れ「田舎」が現代へ生き残ったにすぎないらしい。そもそも漢字の選択においてその本来の意味や発音とは必ずしも直接には関係していないという点では田舎も為中も当て字であるとは、目下閲読中の杉本つとむ先生の論著からいただいた警策。いまはただ先生の御説をいまだ正しく理解していないことを恐るるのみ。

「和漢混交文」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク

2017年12月07日 | 人文科学
 https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E6%B7%B7%E4%BA%A4%E6%96%87-153934

 文語体の一つ。和文体と漢文訓読体とが融合した文体。漢文訓読の際の語法,すなわちいわゆる訓点語には,純粋の和文と異なる特徴が多くみられるが,平安時代になってそれらの要素が,当時の口語に近かった和文のなかに交り合って,和漢混交文が成立した。鎌倉時代以降,当時の俗語なども混入するようになり,特に軍記物語によくみられる。狭義ではこの文体を和漢混交体という。明治に確立した普通文も,やはり一種の和漢混交文である。