『唐宋八大家文』所収。(維基文庫に
テキストあり)
どうも論理が分かりにくい。韓愈に比べ柳宗元は文体がやや難しいと感じる。だがこの晦渋さは其処に由来するものではない。これは、究極的には「忠ならんと欲して孝なりえるか」という本来両立しがたい二つを、なんとか両立させようとする議論だから、論理が晦渋になるのは当り前なのである。
ネットで同名で検索してみたところ、いくつかの関係文献や專論が浮かび上がった。
そのうち年代的に古くかつ基本的なものとしては桑原隲藏「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」がある。これは題名の示すごとく、柳宗元の同文がテーマとしている「親への孝と復讐(が社会にもたらす秩序の不安と破壊ひいては国家・君主の法体系への服従の否定)の対立」という問題をそのまま真っ向から取り上げて論じたものである。なるほど論点の整理には役だったが、柳の文体の難しさには変わりはない。それに柳が結句どうしたいのかが、依然としてよく分からない。孝ならんと欲して忠ならずになっても良いと言っているのか。そしてそれを防ぐために、礼と刑とを概念として分離し、そのことにより、この場合刑の適用と執行を停止せよといっているのか。
閑話休題。近年、「復讐を駁する議」を研究する向きにおいては、忠義と孝行の対立という伝統的な視点から離れて、韓愈「原道」の先蹤にならって儒学思想の転換、或いは宋代以降の新儒学との間に何らかの関連を見ようという傾向があることを知った。その一つに宮岸雄介「
中唐の古文思想にあらわれた儒学の新傾向 : 韓愈と柳宗元の対話の一断面」がある。この問題については、私も柳宗元の文章を自分で読んでみてこの点に関しいくつか気がついたこともあるが、たいへん面白い視角だと思った。
参考。
桑原隲藏「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」(
青空文庫)関連部分。
唐の則天武后の時代に、徐元慶がその父の仇と稱する趙師韜を殺害して自首した。この事件の處置を評議した時、陳子昂は次の如き意見を主張して居る。
(一)父の爲に復讎するは、孝子として當然の行爲で、既に禮經に是認する所である。この點よりいへば、徐元慶の行爲は、奬勵を加ふべきものである。
(二)されど殺レ人必殊とは古今を通ぜる刑法の精神で、又治安の要諦である。この點よりいへば、徐元慶の行爲は、刑罰を加へねばならぬ。
以上の二の理由を併せ考へ、徐元慶は死刑に處して國法を正し、然もその門閭や墓所に旌表を加へて、禮教を奬めるがよい。此の如くすれば、禮と刑との精神を、倶に傳へることが出來る。これが陳子昂の意見で、この意見が採用實行された(『新唐書』卷百九十五、孝友傳參看)。
されどこの處分に就いては、後に柳宗元がその駁二復讎議一(『柳河東集』卷四)に反駁を加へて居る。柳宗元の意見では、禮と刑とは、一致せなければならぬ。旌表と誅戮とは、一致することが出來ぬ。禮として旌表すべき者を誅し、刑として誅戮すべきものを奬めては、國民をして適從する所に迷惑せしむといふのである。柳宗元の非難は正しい。則天時代の朝廷が、かかる不徹底な處分を採つた所以は、畢竟するに、復讎に就いて確たる定見がなく、常に進退兩難の状態に立つ支那官憲の窮餘の一策に外ならぬ。その窮策の裡にも、彼等の孝道に對する苦心は諒とすべしと思ふ。
『唐律』には復讎に關する處分を載せてない。復讎事件が發生する毎に、朝臣を會し、その意見に聞いて處分した。韓愈に「復讎状」(『韓昌黎集』卷卅七)一篇がある。こは憲宗時代に起つた、復讎事件に關する彼の意見書である。彼の意見の大要は、復讎を禁止しては徳教上面白くない。さればとて之を公認しては、治安上面白くない。國家の法律に復讎に關する條文を明記してないのは、意味深長と思ふ。事件の發生した場合に、群臣會議し、事理を盡くして、處置すべしといふに歸する。