書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

石崎又造 『近世日本に於ける支那俗語文學史』

2015年01月30日 | 日本史
 柳沢吉保は中国語ができた由。悦峯道章が江戸城で徳川綱吉に拝謁した際、彼は通訳を待たず悦峯の発言を理解したという。吉保は若年から中国僧に就いて参禅していた(黄檗宗)、つまり学び通じる必要があったということだ。第三章第一節「柳澤吉保を中心とする支那語学」、本書50頁。

(清水弘文堂書房 1967年9月)

村上嘉英 「近世琉球における中国語学習の様態」

2015年01月28日 | 地域研究
 『東方学』41、1971年3月、同誌91-100頁。

 有名な唐栄の住民(久米三十六姓)は、明初といわれる中国からの移住の後、次第に中国語を忘れていっていたのだが、18世紀初(1718年)に国家制度としての中国語教育体制が整う(明倫堂の設置)。ここで教えられるのは彼ら本来の母語である福建語ではなく北京官話であった由。
 因みに明倫堂の設置を提起したのは程順則であった。またこの年1718年は蔡溫が琉球国の統治の最高責任者の地位にあった時期である。蔡溫は冊封使としてこの前々年に清へ出発し、この年に帰還している。二人とも久米三十六姓の出身である。

加地伸行 「中国古代論理学史における荀子」

2015年01月28日 | 東洋史
 『東方学』41、1971年3月、同誌32-47頁。

 中国古代論理学史の大きな流れについて、ふつう、つぎのように説明されている。
 詭弁論者たちが論理学の発達を歪めたが、荀子が登場して詭弁を批判し、正しい論理学を打ちたてた。一方、詭弁論者たちの議論を整理して行き、論理学の精密化を図ったのが、墨家後期の、いわゆる墨弁の諸篇に見られる論理学〔略〕であり、これは荀子に影響を与えた。中国古代論理学史において、墨家の論理学や荀子の論理学というようなすぐれたものも生まれたが、その後ついに中国においては論理学が発達しなかった。それにつけても、誤った方向に走った詭弁論者たちのエネルギーが惜しまれる、と。
 (32頁)

 この見取り図に疑問を呈し、そもそも「正しい論理学」とは何か、というところから始めて、結果としてこれをほぼ全否定するのが本論の内容である。

日原利国 「荀悦の規範意識について」

2015年01月28日 | 東洋史
 『東方学』18、1959年6月、同誌9-20頁。

 図式化するならば、現実解釈に於ては厳しく実証的であり、優れて帰納的でありながら、その解決策ないし未来図の構成に於ては、経書からの安易な演繹、儒家的教説の不用意な援用の如きドグマティズムに陥つていると云ひ得よう。それは儒家通有の病弊であり限界であるかもしれない。ただ荀悦の場合は、基本的には家族津特に至上の価値を認めながらも、現実の場に於ては国家主義的なるものと儒教主義的なるものとの並立に執拗な努力を繰り返したのであった。 (20頁、原文旧漢字)

 荀悦の思惟に形式論理(帰納・演繹)的思考が見られるとの主張。ただし帰納は実証主義・事実主義を唱えるなど、かなり厳密だが、演繹は儒教経典中の言説と儒家の教説を安易に前提とした、杜撰なものという指摘。
 彼の認識論上の実証主義、帰納的方法(10-11頁の指摘)はどこから来たものか?

鈴木健一 『古典注釈入門 歴史と技法』

2015年01月21日 | 文学
 再読

 今日的な実証性を伴う注釈態度からは違和感を覚えるような、以上のような注釈のありかたは、むしろ中世人にとっては自然なものだったのかもしれない。自らの幻影をも投影することによって、作品世界と初めて一体化することが可能になる、一種の秘儀的な空間がそこには生まれていたのである。 (「第一章 古代・中世の注釈 秘儀としての注釈」本書67頁)

 秘儀的な空間の中に、文学・歴史・宗教といったものが混沌としてあって、そこから生まれる幻想を作品世界に投影させながら理解することが、ここ〔引用者注・中世〕での注釈作業の本質なのだった。 (同、104頁)

 伝統中国における古典の読解・注釈法に関する山下龍二氏の指摘をおもいおこさせる。

 契沖が用例を引いてきて、機能的な解析を行ったのに比べると、真淵はむしろ心情を重視して、感動のありかを示したのである。客観的な情報処理と、主観に訴える心情分析と、そのふたつは今日の注釈にも欠かせない大きな要素であると思う。それは近世初期にはすでに表れているものだった。
  (「第二章 近世の注釈 実証としての注釈」本書146頁)

 では本居宣長は?

(岩波書店 2014年10月)

マイケル・トマセロ 『心とことばの起源を探る』

2015年01月21日 | 抜き書き
 大堀壽夫・中澤恒子・西村義樹・本多啓訳。

 ヒトとヒト以外の霊長類を比較することによって、次のような結論が得られた。同種の他者を自分自身と同じように意図を持つ存在であると理解することはヒトに固有の認知能力であり、ヒトの認知に固有のさまざまな特性の多くが、この能力が発現したり、さもなくは文化的な過程を経て直接的に影響したりした結果として、説明できるということである。 (「第三章 共同注意と文化学習」71頁)

 この理解によって習得が可能になる文化的な道具、中でももっとも重要なのは言語である。 (「第三章 共同注意と文化学習」71頁)

 ヒトが同種の他者と同一化するという特別な能力を遺伝によって受け継ぐと仮定するならば、この能力に関して何らかの生物学的な障害を持つ個人を探すことも自然となる。そして言うまでもなく、自閉症の子供がそれに該当する。よく知られているように、自閉症の子供は共同注意と視点の取り方に顕著な問題を抱えている。
 (「第三章 共同注意と文化学習 3 九か月革命についてのシミュレーションによる説明」103頁)。

 われわれは、言語の指示機能とは、ある人間が、別の人間の注意を世界の中の何かに向けさせようとする社会的な行為であるという理論的な点を明確に認めなければならない。 (「第四章 言語的コミュニケーションと記号的表示 1 言語習得における社会的認知の基盤」131頁)

 もちろん、家庭で飼われているペットが「ごはん」ということばの音が食物の到来を告げていると理解するのと同じように、幼い幼児でも、大人の雑音の一つを何かの知覚される出来事と関連づけて学ぶことはありうる。しかし、それは言語ではない。子供が、大人が何かに注意を向けさせる意図で音を発しているということを理解した時、はじめて子供にとってその音は言語になる。それが言語だということに初めから気づいているわけではなく、発育の過程で理解するようになる。そのためには、〔略〕他者も意図を持つ主体であるということを理解しなければならない。また、〔略〕共同注意場面への讃歌が必要だし、今日注意場面の中での特定の意図的行為、つまり、伝達意図を表す伝達行為を理解しなければならない。 (「第四章 言語的コミュニケーションと記号的表示 1 言語習得における社会的認知の基盤」136頁)

 私は、言語は認知の一形式だと考えている。言語とは、人と人の間の意図伝達を目的とする認知のことである(略)。人間は、他者と自分の経験を分かち合うことを望み、長い年月の間に、それを達成するための記号的習慣を生み出した。その記号的終刊を習得する過程で、Slobin (1981) が「話すための思考 (thinking for speaking) と言っているように、人間hは、言語なしでは概念ができないようなことも概念化するようになる。人間の記号による意図伝達が効果的に成功するためには、独自の形式の概念化が要求されるからである。
 (第五章 言語の構文と出来事の認知 3 言語的認知」201頁)

(勁草書房 2006年2月)

白川静 「訓詁に於ける思惟の形式について」 (その2)

2015年01月20日 | 東洋史
 「その1」より続き。
 前回と同じく、『立命館文学』64、1948年3月。のち『白川静著作集』1(平凡社 1999年12月)収録、同書359-389頁。テキストは後者を使用。

 さて氏は、反訓の存在を否定したのち、反訓が存在すると考えた人間の思惟そのものがまさに研究すべき対象であり真実の問題であると論を進める。

 訓詁上反訓ということは存在しないものである。しかしながら反訓といわれる現象が実際には存在しないということと、郭璞以来現在に至るまで、反訓の存在が信ぜられてきたという事実とは、区別して考えられなければならない。〔略〕反訓という事実の有無に拘わらず、思惟としては訓詁上矛盾の統一と考えられるかかるものが存在していたのであって、この事実は、小島博士の言を借りると「かかる解釋が支那思想の上から見ても亦た合理的であることを證するもの」であったのである。従って問題は、反訓の存否ということを超えて、直接に、反訓という概念を成立せしめた根拠に向って進められるのでなければならない。 (「三」 382-383頁)

 ではどうするのか。氏は言を続けていう。

 従って問題は、反訓の存否ということを超えて、直接に、反訓という概念を成立せしめた根拠に向かって進められるのでなければならない。すなわちかかる概念を成立せしめた民族の基礎的な体験のうちに、かかる弁証法的思惟が存在していたかどうかということを問うのでなければならない。そしてそこから逆に、反訓ということの本質が考えられるのでなければならない。 (「三」 383頁)

 ここで氏の立てた具体的な検証点は以下の三つである。

 1. 反訓という概念を中国人の思考様式に成立させた歴史・伝統における根拠は何か。
 2. その根拠には何らかの弁証法的と形容できる思惟は認められるか否か。
 3. その根拠から見た場合、反訓はその性質をどう理解すべきか。

 氏の回答は以下の通りである。なお、文中表れる「S」「P」は、「AはBである」のそれぞれ「A」、「B」に該当する。S=主語、P=述語である。

 1. 氏は、『易』の「序卦伝」の冒頭部分(注)を例として挙げながら、「こういう限りない連環のうちに、われわれは、引申比義、自由にPを転換しながら連鎖してゆこうとする訓詁的方法を見ることができると思う」(「三」 385頁)とする。

 。有天地然後萬物生焉。盈天地之間者唯萬物。故受之以屯。屯者盈也。屯者物之始生也。物生必蒙。故受之以蒙。蒙者蒙也。物之稺也。物稺不可不養也。故受之以需。需者飮食之道也。飮食必有訟。故受之以訟。訟必有衆起。故受之以師。師者衆也。衆必有所比。故受之以比。比者比也。比必有所畜。故受之以小畜。物畜然後有禮。故受之以履。履而泰、然後安。故受之以泰。泰者通也。物不可以終通。故受之以否。物不可以終否。故受之以同人。
 天地有りて然る後に萬物生ず。天地の間に盈つる者は唯萬物なり。故に之を受くるに屯を以てす。屯とは盈つるなり。屯とは物の始めて生ずるなり。物生ずれば必ず蒙なり。故に之を受くるに蒙を以てす。蒙とは蒙[おろ]かなり。物の稺[おさな]きなり。物稺ければ養わざる可からず。故に之を受くるに需を以てす。需とは飮食の道なり。飮食すれば必ず訟え有り。故に之を受くるに訟を以てす。訟えには必ず衆の起こる有り。故に之を受くるに師を以てす。師とは衆なり。衆あれば必ず比[した]しむ所有り。故に之を受くるに比を以てす。比とは比しむなり。比しめば必ず畜う所有り。故に之を受くるに小畜を以てす。物畜えられて然る後に禮有り。故に之を受くるに履を以てす。履んで泰、然る後に安し。故に之を受くるに泰を以てす。泰とは通ずるなり。物は以て通ずるに終わる可からず。故に之を受くるに否を以てす。物は以て否に終わる可からず。故に之を受くるに同人を以てす。(原文と読み下し文はこちらによる)

 たとえば屯は卦象よりみて屯難の義であるのに、あるいは「盈也」として上を承け、あるいは「始生也」として下を起している。また需は掛義よりすれば需待の義であるのに、飲食より訴訟の義を起している。Pは自由にSの周辺をめぐりつつ、また他のSに連り滋生してゆく。そこでは意義の上の引申のみにとどまらず、仮借音を媒介とするものであっても構わない。いわゆる反復であり、旁通である。従って、「泰者通也、物不可以終通、故受之以否」といい、また「物不可以終否、故受之以同人」というごときも、それ自体決して弁証法的思惟を示すものと考うべきではないであろう。窮と通とは相互に否定的に体者を措定するというような緊張した矛盾的対立の関係ではなく、陰陽の消長のごとく、朝夜の交替のごとく、何らの矛盾も含まずして、おのずから循環してやまぬ自然の代序の姿と一般である。 (「三」 385頁)

 1に引き続き、2と3についても氏は解答を提示する。

 2.
 字形・音声および文法的関係等に本づくこのような対待語の成立は、中国にあっては、古代からこの民族を支配し続けてきた陰陽二元的な世界観と、関係をもつであろうことがまず推測される。こういう関係以外に、動静・挙止・黒白のごとく、意義上の対待語に至っては、殆どその数を知らないのである。 (「三」 387頁)

 しかしながらこれらもまた、そのままでは弁証法的思惟を含みうるものではあるまいと思う。それらはいずれも、自己否定的に対者を措定することにより、さらに高次の概念を生むという構造的な発展的なしかたによって生じたのではなく、むしろはじめから同時的に存在するもの、すなわち一なるものを離析することから生じた対偶に過ぎないのである。陰陽という概念は、自然的な世界を支配する一つの原理的なものが、まず直観的に把握されていて、それを離析することによって得られた対待的な概念に過ぎない。〔略〕語義のもつ振幅が、その振幅の範囲内に於いて対待の義を生ずるということも、これらと聯関して理解される思惟形式ではないかと思う。
 (「三」 387頁)

 3.
 訓詁に現れた思惟の形式には、大体二つの類型があるように思われる。一つは観念の聯合にもとづいて、無限に外延的に拡大してゆこうとするものであり、そこでは音声や意義の上から、類比的に外に向かって連鎖状につながってゆこうとする傾向がある。〔略〕第二の類型としては、対偶的な思惟形式をあげることができると思う。〔略〕中国においては、陰陽の二元は究極的に絶対の対極に立つものではなくして、実は一なるものの属性に過ぎない。それは従って存在するものではない。〔略〕陰陽は単なる自然的理法の表象に過ぎなかった。両者は交流承逓し、流行還帰してやまざる宇宙の理法として表現される。それは反極的であるよりも相対的であり、闘争的であるよりも調和的聯関的である。絶対否定亭であるよりも、むしろ相互肯定的である。いわゆる反訓がつねに反復旁通という語で示されているのはかかる意味に於いてであって、それは実に一つの環の対偶を意味するものであったに過ぎないのである。 (「三」 388-389頁)

 上記、『易』「序卦伝」の「物稺ければ養わざる可からず。故に之を受くるに需を以てす」云々の論法は、『中庸』の、「修身斉家治国平天下」に似ている。フェアバンクが「連鎖論法」「前提とは関係なく生まれてくるおかしな推論」と呼んだ所のもの。
 また「1」における白川氏の「Pは自由にSの周辺をめぐりつつ、また他のSに連り滋生してゆく。そこでは意義の上の引申のみにとどまらず、仮借音を媒介とするものであっても構わない。いわゆる反復であり、旁通である」の指摘は、津田左右吉の『支那思想と日本』におけると同じ現象を指してそれを表現・評価する言葉を換えたものではないか。

藤堂明保 「鳳凰と飛廉について 漢タイ共通基語の一面」

2015年01月15日 | 東洋史
 『東方学』18、1959年6月、104-114頁。

 私は直ちに当時の山東河南の夷人が、今日の東南アジアに住むタイ語を用いる民族と同系だと主張するのではない。〔略〕しかし次のことは、まず言えると思う。即ち、紀元前十世紀のころの中原の言語は、「漢タイ共通祖語」とも称すべきものであって、後の漢語とタイ語とは、この祖語からしだいに分かれ出たものらしいということである。 (114頁、原文旧漢字)

 漢語において時代が下るとともに二字単語が増加するのは、筆者がその結果として主張する双声語、畳韻語の出現はもちろんのこと、その他一般の語彙においても、元来複声母(kl、pl、ml、bl)が二音節に分裂したことが原因の一つとしてあるらしい。

小池清治 『日本語はいかにつくられたか?』 再読

2015年01月13日 | 日本史
 再読
 著者によれば、二葉亭四迷は言を文に近づけようとして行詰まったが(『浮雲』)、漱石は文を言に近づけようとした(『猫』~『三四郎』)。英語翻訳調を含む古今の日本語表記表現の様々な導入試行の後、『三四郎』で彼の文体は確立すると(「Ⅴ 近代文体の創造 夏目漱石」)。
 同じく「Ⅴ 近代文体の創造 夏目漱石」。『坊っちゃん』を勝小吉の『夢酔独言』と比べる発想に瞠目。洒落本・滑稽本といった江戸戯作文学の語り口たる会話体、それはすなわち一人称視点の言文一致であると。
 また、大槻文彦は、『言海』を編纂する際、日本語に語別(品詞)分別を施した。その理由は、信じ難いほどのことだが、「外国の辞書には品詞が明記されているから」だった由。しかも彼の日本語文法は、英文法と伝統文法の折衷、単純な接合――しかも前者を主とした――に他ならないと(「Ⅵ 日本語の文法の創造 時枝直記」)。
 『広日本文典』における「主語、上ニ居リ、説明語、下ニ居ルヲ正則トス、主語ト説明語〔述語〕トヲ具シタルハ、文ナリ、文ニハ、必ズ主語ト説明語トアルヲ要ス」(本書208頁に引用)という、大槻の文の定義、ひいては彼の日本語のシンタックスの概念は、小池氏も言われるように、英文法のそれを日本語へそのまま持ってきただけにすぎない。「こうなると『観点』もなにもない」(207頁)という氏の言葉には頷かざるをえない。
 つまりは日本語においての品詞とはなにか、文とはいかなるものかという根本的な考察は、大槻文彦においてはなされなかったらしい。

(筑摩書房 1989年5月 ちくま学芸文庫版 1995年6月)