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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

磯貝淳一 「『東山往来』の文章構造 : 書簡文体と注釈文体とを繋ぐ問答形式」

2017年12月18日 | 日本史
 『人文科学研究』135、2014年10月掲載、同誌49-76頁

 冒頭の研究史整理のところで思ったが、変体漢文の文体論をするときは、筆者が何語を書いているつもりだったかの吟味も必要ではなかろうかと。漢文(中国語)の積りだったのか、漢字を使って変体漢文の文体で日本語を記している積りだったのか。あるいはすでに読み下しの形で日本語が筆者の頭のなかに構想されており、それをいわば元にもどして漢文の語順で書いているのか。この三択は過去の変体漢文研究においてすでに提起されているが、さらに私は、可能性として、「変体漢文(漢文でも和文でも漢文訓読体あるいは和漢混淆文でもなく)」を書いている積りだったといういまひとつの選択肢を追加したい。

『日本教科書大系』1-4『古往来』編

2017年12月18日 | 日本史
 石川謙(奥付にはこの名だけだが扉には石川松太郎のいう名も見える)編纂。

 「道理」というものを、その名を挙げたうえ、さらに「それはこれこれこういうものである。銘記せよ」で終わらず、「ではこういう状況において道理はいかにあるべきか」を、論理の道筋を示しながら同時に読者にもその当否を含め自分で考えさせようとするのは、『東山往来』と『賢済往来』だけだった。後者は、著者は自覚してのことかどうかはわからないながら、結果として、「道理」が導き出される材料を各種並べることで、「道理」とはなにかの本質的な問いにまで、読者がその気があれば誘う作りになっている。

(講談社 1967年2月)