goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

衣笠安喜 「儒学思想と幕藩体制」

2018年09月04日 | 日本史
 奈良本辰也編『近世日本思想史研究』(河出書房新社1965/2)所収、同書15-54頁。

 朱子の朱子学および林羅山の朱子学を「ヨーロッパの中世自然法――トマス的自然法――に比定することは、今日ではすでに通説となっているといってよい」とある(23頁)。これが現在も通説であるとして、従来どうもよく解らない。衣笠氏は、朱子学についてはともかく、羅山学については、異議を唱えておられる。さらに根本的に、ヨーロッパ中世の自然法を、いわば“あてはめて”そこに類似したものを見出そうとする丸山眞男(朱子学)・奈良本辰也(羅山学)両氏の方法の学問的妥当性についても疑問を呈している。


尾藤正英 『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』

2018年09月04日 | 日本史
 「天」の観念を生み、儒学の思想的権威が日本よりもはるかに強かった中国において、必ずしも日本の場合と同様な「公論」尊重の風潮が政治上に重要な役割を果たしたとはみられないことが注目される。とすれば私たちは、この風潮を生み出した要因を、日本近世の社会構造やそれを支えていた意識のなかに、探究することを試みなくてはならない。 (「Ⅲ 近代への展望」“明治維新と武士――「公論」の理念による維新像再構築の試み」本書188頁)

 藩や国家など組織の公共的な利害を、個人の私的な利害関係に優先させる武士的な価値観のあったことが、見逃されてはならない。(同、192頁)

(岩波書店 1992年12月第1刷 1993年5月第4刷)

吉田松陰「留魂録」に見える“公明正大”という語

2018年09月01日 | 日本史
 テクストは『青空文庫』。

 それ梅田〔源次郎・雲浜〕は、もとより奸骨あれば、余ともに志を語ることを欲せざるところなり、何の密議をなさんや。わが性、公明正大なることを好む、豈に落文なんどの隠昧のことをなさんや。

 この“公明正大”とは何に基づく何だろう。「密議をなさず」「落文なんどの隠昧のことをなさず」は、その発動による具体的な結果にすぎない。

野呂栄太郎 『日本資本主義発達史』全2冊

2018年08月24日 | 日本史
 「『プチ・帝国主義論』批判 高橋亀吉氏の緒論を駁す」。ほぼ40年振りに読む。谷沢永一大人が「野呂は、レーニンはこう言っているのに高橋亀吉は違うことを言う。だから間違いだ」一転ばりで、「なんと頭の悪い男か、自分でものを調べるという手続きも、自分で考える態度も全然ない」と評していたが(『読書有朋』)、40年経ったらますますそう思う。当時と今の時代の差を考えても、自分でものを考える能力がないという形容は鉄案で動かしがたい。その態度がないというのはその能力がないと判断されてもしかたがない。私は彼の親ではないのだから。

(岩波文庫 1983年11・12月)

柴田正蔵 「会津藩の教学から 『什』と『家訓』について」

2018年06月11日 | 日本史
 『北方風土』38、1999年5月掲載、同誌18-22頁。

 子供の時にNHK『日本史探訪』の白虎隊の回で、有名な什の「お話」の「ならぬことはなりませぬ」(第八条)を見て、「おまえたちは何も考えるな、黙って大人の言うことを聞いていればよい」の教えかと、以来腹を立ててきたのだが、こうして全文をあらためて読んでみると、前の七条の「なりませぬ」を最後に強調する目的で置かれていただけではないかという気もする。そしてその前七条は、倫理項目として、それ自体価値ありとして首肯できる(もしくは理解できる)ものがほとんどである。

豊田有恒 『邪馬台国を見つけよう』

2018年04月15日 | 日本史
 韓国から出発して九州、そして近畿へと、実際に移動しながら行う、フィールドワーク風の知的探検記なのだが、表紙絵の人物がリビングストンのようなアフリカ探検用の出立ちで、しかも象に乗っている。いったいどこへ行くつもりかと言いたくなる。

(講談社 1975年5月)

齋藤文俊 『漢文訓読と近代日本語の形成』

2018年03月01日 | 日本史
 出版社による紹介

 漢文訓読体は基本的に過去・完了の助動詞は使わない、使うとしてもキ・タリ・リの三種のみ」(要旨・第二章126頁)と言われても、なぜそうなのかを説明してもらわないと、私のような者はどうにも頭に入りにくい。また、明治後の邦訳聖書で二人称代名詞として「爾(なんじ)」と「あなた」の二種が使われていると言われても(第八章231頁から)、前者は漢訳聖書からの流用つまり漢語の二人称代名詞であって日本語のそれではないし、「あなた」はもともと指示代名詞である。聖書の翻訳において原語の人称代名詞の訳語として使われた結果、日本語としても人称代名詞として認識されるようになったのかもしれぬと、素人は素人なりに可能性のある疑問を抱くのだが、すくなくともそのあたりの検討と、そういうことはないという念押し(つまりそれ以前から「あなた」は人称代名詞であり人称代名詞として使用されていたという事実の確認)がなされていないと、何も知らず理性のみを持って知の世界を読み進む者には、歩む道中が寒くてたまらない。

(勉誠出版 2011年2月)

大島正一 『漢字伝来』

2018年02月28日 | 日本史
 出版社による紹介

 「第Ⅴ章」の114-115頁にまたがって記されているある指摘(後述)は、文末が「~とみることはできないだろうか」と、疑問形であるということは、著者によって初めて提起された、あるいは先行者がいるにしても、いまだ検討もしくは検証されていないということを意味するのであろう。宣命体の大文字と小文字の書き分けの区別(どこまでを大文字の裡として留め、どこからを、あるいは何を、小文字として追加・付記するか)は、そんなに等閑にしてよかるべかりし問題なのか。私にはちょっと理解しかねる物事の順序感覚である。

 このような書き分けができたのは、(宣命体の)書き手が文中における語の機能をはっきりと認識していたからにほかならない。そしてこの書き分けは、室町時代の末ごろに芽生え、江戸期になっておこなわれ始めたと説かれる品詞分類の、はるかにさかのぼる潜在的なさきがけとみることはできないだろうか。大・小字の書き分けは、この点でも興味あることがらと思われるのだが。

(岩波書店 2006年8月)

江戸時代の呂氏春秋学 土屋 紀義(編著) - 中国書店 | 版元ドットコム

2018年02月27日 | 日本史
 http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784903316581

 このような翻刻を行ったわれわれの意図は、従来知られていなかった江戸時代の『呂氏春秋』を紹介することによって、この時代の先秦諸子研究の全貌把握の一助とすることのみではなく、むしろ山子学派および森鐵之助らの『呂氏春秋』注釈が、当代の『呂氏春秋』研究にも十分に貢献しうると判断したからである。


 一読、“意味”はわかったが、「紹介」で掲げられたところの“意義”が、いまひとつよくわからない。

 この二種は、江戸時代における『呂氏春秋』注釈の中で質量ともに最も優れたものに数えることができ、中国思想史はもとより日本思想史にこそ重要である。『呂氏春秋』研究における意義を明らかにする解説を付す。


 私の言っているのは日本思想史における意義である。