ツイッターの「暇潰し」や「面白半分」は江戸時代の戯作の「うがち」と「ちゃかし」の末孫もしくは転生ではないか。中村幸彦「増補 戯作論」(『中村幸彦全集』第八巻所収)を読んでの着想。
卒論で沙陀部族のある人物を扱ったのだが、そのときは当方アホで気も付かなかったが、沙陀が地名で、自分の部族名もしくは集団名を、なんらかのゆかり(アイデンティティのよりどころ)がある地名から採るというのは、漢語的発想のようにも思える。
これは沙陀もしくは彼らが同心円で同胞と感じる周辺もしくは上位集団の文化的思考様式でもあったのか、それとも彼らが漢語世界と交渉するうちに多少とも漢化して(漢語を使用するようになったと言うくらいの意味)、そういう思考法を取るようになったのか、それとも彼らとは関係なく、記録する漢語世界のほうでそう、いわば勝手に彼らを“名づけ”(=世界を分節)たのか。
これは沙陀もしくは彼らが同心円で同胞と感じる周辺もしくは上位集団の文化的思考様式でもあったのか、それとも彼らが漢語世界と交渉するうちに多少とも漢化して(漢語を使用するようになったと言うくらいの意味)、そういう思考法を取るようになったのか、それとも彼らとは関係なく、記録する漢語世界のほうでそう、いわば勝手に彼らを“名づけ”(=世界を分節)たのか。
吉川幸次郎大人の栗田直躬『中国上代思想の研究』書評を読む(『全集』3、542-546頁。もと岩波『図書』1950念1月掲載の注記)。「栗田氏のこの書物は従来ありきたりの中国思想史とは、方法を同じくしない」で始まるその始まりに激しく膝を打つ。その次の“如何に”の腑分けに帽子を脱いだ。
従来の思想史は、思想家たちの文章、つまりその自覚した主張のみを、専ら資料としがちであったが、この論文集では〔中略〕、思想家たちの文章に現れた単語を、必ずしも自覚された概念規定を伴わないものをも含みつつ、主要な考察の資料としているからである。
従来の思想史は、思想家たちの文章、つまりその自覚した主張のみを、専ら資料としがちであったが、この論文集では〔中略〕、思想家たちの文章に現れた単語を、必ずしも自覚された概念規定を伴わないものをも含みつつ、主要な考察の資料としているからである。
テキストはウィキソースから。
號曰商君。商君治秦,法令至行,公平無私,罰不諱強大,賞不私親近,法及太子,黥劓其傅。
太子本人を黥劓しなくて何が“公平無私,罰不諱強大”かと思うが、傅という太子にとって近しい(親しい)存在を罰することで、面子を潰して辱めるというやり方での罰なのかもしれない。でないと太子にあそこまで恨まれるという理由がよくわからない。ひとつには衛鞅に取って代わられる可能性を危惧したということはあるものの。
孝公已死,惠王代後,〈姚本惠王,孝公太子也。〉蒞政有頃,商君告歸。〈姚本懼惠王誅之,欲還歸魏也。 鮑本懼誅歸商。〔後略〕
號曰商君。商君治秦,法令至行,公平無私,罰不諱強大,賞不私親近,法及太子,黥劓其傅。
太子本人を黥劓しなくて何が“公平無私,罰不諱強大”かと思うが、傅という太子にとって近しい(親しい)存在を罰することで、面子を潰して辱めるというやり方での罰なのかもしれない。でないと太子にあそこまで恨まれるという理由がよくわからない。ひとつには衛鞅に取って代わられる可能性を危惧したということはあるものの。
孝公已死,惠王代後,〈姚本惠王,孝公太子也。〉蒞政有頃,商君告歸。〈姚本懼惠王誅之,欲還歸魏也。 鮑本懼誅歸商。〔後略〕
西脇順三郎訳の『カンタベリ(-)物語』は、冒頭の'General Prologue'がどうして「ぷろろぐ」になっているのか(驚)。「解説」ではご丁寧にも「総序」と漢字に訳したうえで「ぷろろぐ」とルビを振ってある(驚2)。筑摩書房刊。
ロシアの某SF作品を邦訳で読む。一人称の主人公が「ぼく」であるべき理由が判らず(56歳で「ぼく」? しかもひらがなで? 私なら作中の言動から判断してたぶん「私」にする。「俺」は不適かと考える)、従ってその後の役割語がことごとくこれじゃない感をもたらし、逓増し果ては気持ちの悪さとなって苛まれることになった。
著者氏の意図とは異なると思うが、一読者としては、心性史はこの個別具体的テーマであればこうやれば質量合わせて表すことができるのか、これは別のテーマでも原理的に応用可能なアプローチかもと示唆を与えられた気がしている。
(KADOKAWA 2008年7月)
(KADOKAWA 2008年7月)
某中国古典小説の邦訳を読む。舞台は宋代、ただし白話(=口語)だから現代日本語で訳すのは納得。ただ「桌兒」を「テーブル」とカタカナ英語にまでして翻訳したのなら、「銅盆撞了鐵刷帚」を、「銅の盥と鉄のたわしの取っ組み合いってところね」とそのまま単語だけ置き換えるのは如何なものか(しかも「たわし」としながら片えは「たらい」ではなく「盥」と漢字に!)。意味もよくわからない。これは、「銅盆鐵帚」(お似合いの二人の意)という成語を踏まえた表現だ(しかもいま調べたら『水滸伝』が出典だそうだ)。「割れ鍋に綴じ蓋ね」と、私ならするところだが、「テーブル」と同じ文章では両者語彙または表現としての位相が違っていて使いづらい。平たく「お似合いの二人ね」とすべきか。それとも、「テーブル」を「桌兒」に戻し、「テーブル」はルビか割注にするか。いずれにせよもっとこなれた訳しようがあったろう。
薄田泣菫『茶話』をざっと見返して「演説の用意」、有名なウィルソン大統領の「十分間の演説の準備には二週間かかる」の話も慥かに面白いが、その前の話は更に面白く感じられる。「ゲエテだつたか、『今日は時間が無いから、仕方なく長い手紙を認める』と言つたが、これは演説にもまたよく当てはまる」