『漢文大系』(冨山房 1910年4月)2 収録。正確には『箋解古文新寶』(後集)。
2012年03月28日
『韓愈 「師説」 冒頭句新釈」より続き。
*「ウィキペディア」
「古文真宝」項から
『古文真宝』(こぶんしんぽう)は、漢代から宋代までの古詩や文辞を収めた書物。宋末か元初の時期に成立したとされる。
黄堅の編と言われるが、編者の人となりや具体的な成立の経緯は伝わっていない。前集に詩、後集に文章を収録する。各時代の様々な文体の古詩や名文を収め、簡便に学習することができたため、初学者必読の書とされて来た。
日本には室町時代のはじめごろに伝来した。五山文学で著名な学僧たちの間より広まり、江戸時代には注釈書が多く出された。
入門書である以上、歴代の注釈の主なところが紹介されているであろうという予測のもとに、該当箇所を閲してみた。「巻之二 説類」、同書75頁。
古之学者、必有師。 師者所以伝道授業解惑也。 人非生而知之者。 孰能無惑。 惑而不従師、其為惑也、終不解矣。
はたして、“学者”を「学ぶ者」ではなく「学ぶこと」、“師”を「師匠」ではなく「師とすること」と解釈した注は古来あったかどうか。
結論を言えば、なし。引かれている諸家の解釈は、すべて“不可無師”、師なかるべからず、つまり「師匠」の意に解している。“学者”に至っては、注すらない。
しかたがないので、自分で調べてみる。先ず、「学者」から。
韓愈の時代に、“学者”を「学ぶこと」という意味で使った用例があるかどうか。
『諸橋大漢和辞典』「學(学)」の「學者」では、出てこない。古い時代の「礼記」から韓愈よりあとの朱子の「大学章句」まで、例文が引かれているが、どれも①「学問する人」「学生」「学士」あるいは②「学問を積んだ人」「碩学鴻儒」という、人間を指す用例しかない。
なんか頼りないので『佩文韻府』も見てみる。巻五十一、二十一馬、者。「學者」。
こちらは例文が一つだけ。ただし『(旧)五代史』だから韓愈とよほど時代が近い(「史匡翰伝」)。だがそれはやはり学者、『諸橋大漢和辞典』の分類に従えば②のほうである。
というより、こんな熟語としての用例を探して稽えずとも、単純に“學”+“者”の連続と看た方がいいのかもしれない。文脈からいってそのほうが自然であるし(だから私は前回そう解した)、それに者というのは、「~する人・物・こと」をすべて意味する語(虚詞)なのだから。もっとはっきりいえば、虚詞としての“者”の意味は、「~する人・物・こと」つまり即物之辞(事物に就いてそれを指し示す辞)である以上に、別事辞(事を別くる辞)、つまりその語をその他の語から切り離して際だたせる、たとえば文頭であれば文章のテーマ(主題・あるいは時に主語)を示す働きが第一なのだから(『助辞弁略』「者」)。
その『助辞弁略』にも省略された形で載っているが、『中庸』の、
仁者人也。親親爲大。義者宜也。尊賢爲大。(仁は人なり。親を親しむを大いなりとす。義は宜なり。賢を尊ぶを大いなりとす。)(第二十章)
など、その良い例である。
まあそれにしても、古人の注釈もいい加減なものだ。見るからに穴があいているのに填めようとしないのか。
(冨山房 1978年5月増補3版)