元来、〔略〕外交史的関心から着手された在外公館研究は、その構成員の思想観念の解明が先行してしまった。それが重要ではない、不要だ、というのではない。構成員の言説をみるには、まずかれらが立脚した在外公館のありようを十分に解明しておくことがしかるべき順序ではないか、といいたいのである。制度的な位置づけや条件を解き明かさないまま、文字となって残るものを素材に、思想観念を論じるだけでは、その位置づけも十分にできないのではなかろうか。 (岡本隆司「総論 常駐公使と外交の肖像」、同書5頁)
この書で紹介・引用された日記のいくつかは、私も読んでいるが、文体が伝統的な文言文とはかなり異なっている。語彙レベルからしてそうである。それまでの中国にない概念や事物を写さねばならないのだから当然である。そしてその変化は語句(表現の方法)まで及ぶであろう。
この点につき、この書ではその角度からの各日記の文体分析や相互比較はなされない。だがたとえば、ここで紹介された人物例のなかでもっとも保守的な劉錫鴻の文体と、もっとも開明的と思える黄遵憲のそれとの間には、おそらく相当程度の差異が存在するはずである。
(名古屋大学出版会 2014年8月)
付記。本書で引用される劉錫鴻の文章を読んでいて、その主張に、我が国の大橋訥庵を想い出した。こんな感じ。
この書で紹介・引用された日記のいくつかは、私も読んでいるが、文体が伝統的な文言文とはかなり異なっている。語彙レベルからしてそうである。それまでの中国にない概念や事物を写さねばならないのだから当然である。そしてその変化は語句(表現の方法)まで及ぶであろう。
この点につき、この書ではその角度からの各日記の文体分析や相互比較はなされない。だがたとえば、ここで紹介された人物例のなかでもっとも保守的な劉錫鴻の文体と、もっとも開明的と思える黄遵憲のそれとの間には、おそらく相当程度の差異が存在するはずである。
(名古屋大学出版会 2014年8月)
付記。本書で引用される劉錫鴻の文章を読んでいて、その主張に、我が国の大橋訥庵を想い出した。こんな感じ。