書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

岡本隆司/箱田恵子/青山治世 『出使日記の時代 清末の中国と外交』

2014年11月29日 | 東洋史
 元来、〔略〕外交史的関心から着手された在外公館研究は、その構成員の思想観念の解明が先行してしまった。それが重要ではない、不要だ、というのではない。構成員の言説をみるには、まずかれらが立脚した在外公館のありようを十分に解明しておくことがしかるべき順序ではないか、といいたいのである。制度的な位置づけや条件を解き明かさないまま、文字となって残るものを素材に、思想観念を論じるだけでは、その位置づけも十分にできないのではなかろうか。 (岡本隆司「総論 常駐公使と外交の肖像」、同書5頁)

 この書で紹介・引用された日記のいくつかは、私も読んでいるが、文体が伝統的な文言文とはかなり異なっている。語彙レベルからしてそうである。それまでの中国にない概念や事物を写さねばならないのだから当然である。そしてその変化は語句(表現の方法)まで及ぶであろう。
 この点につき、この書ではその角度からの各日記の文体分析や相互比較はなされない。だがたとえば、ここで紹介された人物例のなかでもっとも保守的な劉錫鴻の文体と、もっとも開明的と思える黄遵憲のそれとの間には、おそらく相当程度の差異が存在するはずである。

(名古屋大学出版会 2014年8月)

 付記。本書で引用される劉錫鴻の文章を読んでいて、その主張に、我が国の大橋訥庵を想い出した。こんな感じ。

Dokic & Pacherie, "On the very idea of a frame of reference"

2014年11月29日 | 料理
 in Space in Languages: Linguistic Systems and Cognitive Categories, 259-280. 
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「弱いウォーフの仮説」を支持するStephen Levinsonの議論が誤りであることを立証するという目的のもと、"A is next to B."の認識は、"A is in front of B."と違い言語によるframe of referenceによらない知覚レベルだから、言語が思考に影響を及ぼすというLevinsonの主張は成り立たないと筆者は言うのだが、その筆者の"A is next to B."の認識は言語によらないという主張の理由は否定すべきLevinsonがそう言っているから(正確にいえばLevinsonが自身の論文において言語による認識のなかに具体的な例として挙げていないから)というのは、論拠として薄弱の誹りを免れまい。御都合主義とも感じられる。

吉田光 「西周 啓蒙期の哲学者」

2014年11月29日 | 伝記
 朝日ジャーナル編『日本の思想家』1(朝日新聞社 1962年9月)所収、同書105-120頁。
 再読

 『百一新論』の特色と意義は、〔略〕「法」(法律)と「教」(道徳)のもとづくべき「理」(法則)の観念の分析に進み、これまでの東洋的な「道理」の観念のあいまいさを批判して、「物理」(自然法則)と「真理」(人間界の法則)の区別を論じている点にある。/これまでの儒学では、この両者を混同していたために、事物について実証的・合理的な見方、考え方を徹底することができなかった。東洋で実証科学の発達がおくれた原因の一つもそこにある。したがって、ここで西が行った「道理」の観念の分析は、同時に伝統的な考え方の欠陥に対する根本的な批判でもあった。 (114頁。引用は1963年10月第4刷から)

馬伯良 『教款捷要』(1678刊) 「自序」

2014年11月29日 | 東洋史
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  吾等生居漢地、言語文字統属東土。理道不同、文風廻異、所以失経文者多而精于教理者蓋鮮其人也。〔中略〕欲集一書以作指南則難言之矣。蓋以非用漢文、固不某啓大衆之省悟、純用漢文、又難合正教之規矩。  (4/7)

 引用では省略に従ったが、この「理道」はあとに続く文脈からみて、「道理」(=教義)と同義と取る。ちなみにこの点で、この箇所の私の解釈は「アッラーは上帝か?」における佐藤実氏のそれとは異なる(同論文122頁)。
 ここでさらに興味深いのは、引用の後半部分である。「漢文」(漢語・とくに文言文を指す)で書こうとするとイスラム教の内容は正確に記述しにくいと書いてある。語彙(概念)や表現で相当するものがない(少なくとも当時はなかった)からだろう。

藪内清 「李朝学者の地転説」

2014年11月29日 | 地域研究
 『朝鮮学報』49、1968年10月所収、同誌427-434頁。

 洪大容の地転説について、燕行使として清に趣く機会のあった洪が、そこでイエズス会士から聞いた可能性があるとして、その起源を西洋学術に見ている。

 それを聞き知った朴趾源が特にこれを洪大容の創始として強調したように思わわれて〔ママ〕ならない。 (433頁)

 洪大容にはじまり朴趾源によってその創始が強調された地転説は、単に地球自転にふれるだけで、コペルニクスの地動説に比べてきわめて単純なものであった。このような説が十八世紀になってはじめて唱えられたということは、朝鮮が中国を経て間接的に西洋を知るほかなかったことに原因するするもので、むしろ朝鮮にとって不幸なできごとであったとさえ思われる。 (432-433頁)

荻生徂徠 「徂徠先生答問書」

2014年11月29日 | 日本史
 井上哲次郎/蟹江義丸共編『日本倫理彙編』4(金尾文淵堂 1911年3月)所収。

 畢竟天地は活物にて神妙不測なる物に候を、人の限ある智にて思計り候故、右の如くの所説〔陰陽五行説、天人相関説等〕御座候共、皆推量の沙汰にて手にとり候様なる事は無御座候。所詮君子の学問と申候は、国家を平治する道を学び候事にて、 (「上」、同書158頁。原文旧漢字、以下同じ)

 先の寺地論文で見た欧陽脩の言説と酷似している。これは偶然なのかどうか。

 さらに徂徠は続けて言う。

 ・・・人事の上の事学び尽しがたく御座候。格物致知と申事を宋儒見誤り候てより、風雲雷雨の沙汰、一草一木の理までをきはめ候を学問と存候。其心入を尋ね候に、天地の間のあらゆる事を極め尽し、何事もしらぬ事なく、物しりといふ物になりたきという事迄に候。 (同上、158-159頁)

 それは道ではなく儒者の虚栄心のなせるわざに過ぎぬ。このあたりの徂徠の口吻はじつにきつい。そして、彼はさらに言を継ぎ、そんなことが人間にできるものかと吐き捨てるように言う。

 宋儒の説は人のならぬ事をたてて人を強ゆるにて候。 (同上、159頁)

 このあとに、徂徠の朱子学に対する最も致命的な批判と罵倒とが来る。

 理学者の申候筋は、僅に陰陽五行などと申候名目に便りて、おしあてに義理をつけたる迄に候。それをしりたればとて誠に知ると申物にては無之候。其様に知候をしりたりと覚候浅猿さ〔後略〕。  (同上、159頁)

寺地遵 「欧陽修における天人相関説への懐疑」

2014年11月29日 | 東洋史
 『広島大学文学部紀要(日本・東洋)』28-1、1968年12月所収、同誌161-187頁。

 著者によれば、欧陽脩は天と人の連関を疑ってはいなかったが、天の意思はその存在の有無も含めて人智の及ぶ所ではないとし、人間は己の生きる世界での営み(=人事)に勉めるしかないと考えていた由。
 一方、欧とほぼ同時代人である司馬光は、天人相関説の積極的な信者にして鼓吹者だったと著者は仰る。だが紹介されるその具体的な主張を閲するに、「孝道を自然の理法とする」彼の言動は、天人相関説というよりは、倫理と物理の未分離の端的な表れにすぎぬのではないかと思える。

『二程全書』 「遺書伊川先生語第一」 を読む(その二)

2014年11月28日 | 東洋史
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  格物窮理、非是要盡窮天下之物、但於一事上窮盡、其他可以類推。〔略〕窮理(一無此二字。)如一事上窮不得、且別窮一事。或先其易者、或先其難者、各隨人深淺。如千蹊萬徑、皆可適國〔略〕。所以能窮者、只爲萬物皆是一理。至如一物一事、雖小、皆有是理。

 萬物皆な是れ一理なら最初から格物する必要もないだろう。さらに、「遺書二先生語第二上」に、「一人之心卽天地之心(心一作體。)、一物之理卽萬物之理」とある。
 そもそも伊川程頤は、「享仲問、如何是近思。曰、以類而推」と、憶測を正当な推論かつ学問的方法論として認めているわけで、これは現代人もしくは近代の学問の感覚からすると随分恐ろしい話である。「遺書伊川先生語第八上