『岩波講座世界歴史』21(岩波書店 1998年2月)、97-118頁。
題名を見て眉を顰めたが、「一九三〇年代からかれらはウイグルという統一した民族名称をもつようになったが、時代的に遡って便宜上『ウイグル』と呼ばれる事が多い」と冒頭で断ってある。だから自分とそれに従うという意味だろうが、この断り方に無限の興趣がある。
題名を見て眉を顰めたが、「一九三〇年代からかれらはウイグルという統一した民族名称をもつようになったが、時代的に遡って便宜上『ウイグル』と呼ばれる事が多い」と冒頭で断ってある。だから自分とそれに従うという意味だろうが、この断り方に無限の興趣がある。
前者、漢学=考証学派への頌歌であるのは最初から解っているのだが、解ってはいても、常にうっすらと賞賛に覆われる平板さにやや退屈。何を如何にしたのかは書かれても、何故したのかがあまり書かれていない。
後者、無味乾燥・冗長で別の意味で平板退屈な筆致になるのは、宋学を貶めるためにわざとだろうか?
(上海市书店出版 1983年12月)
後者、無味乾燥・冗長で別の意味で平板退屈な筆致になるのは、宋学を貶めるためにわざとだろうか?
(上海市书店出版 1983年12月)
開けて扉のスチール、『山椒大夫』(1954年、溝口健二監督)の写真幾葉を見て、安寿に扮する清潔で凜とした美少女に吃驚。
(毎日新聞社 2008年2月)
(毎日新聞社 2008年2月)
不干斎ハビヤン一人で全日本国民もしくは民族の思惟と心性とを代表できるなら、例えば佐藤信淵をしてまったく別の日本教を説くことも可能である。
(文藝春秋『山本七平ライブラリー』1997年10月)
(文藝春秋『山本七平ライブラリー』1997年10月)
吉田松陰は獄中で蟠桃の『夢の代』を読んだらしい(「Ⅱ 大阪の洋学」85頁)。どのような感想を抱いたか興味がある。著者は、蟠桃の徹底した合理主義(証拠がなければいっさい信じないという態度)を、「証文に生き抜いた体験が反映している」(「Ⅲ 大阪の町人学者・山片蟠桃」119頁)と、奇抜な、それでいて見事に核心を突いた表現で指摘しておられる。
(創元社 2005年4月)
(創元社 2005年4月)
畑違いの方の中国や中国思想の捉え方に(著者は経済学者・経済学博士)、ときに自身の盲点を突かれて面白い。
ただ、いくつか疑問におもったこともある。知識量やその解釈の仕方にではなく、その上にたって氏が展開される論理にである。
まず、天人相関思想が『管子』に法治主義の傾向、それも自然法的なそれを与えることになったのなら、同じく天人相関思想を大いに唱えた儒家の董仲舒にも同じ傾向が見られてよい筈ではないか。『管子』の天人相関思想を指摘して董仲舒の場合にはそれに触れないのは私から見れば不公平と感じられる。
それから、氏の問題意識においては横井小楠と康有為をもうすこし重く扱う必要はないだろうか。前者がなぜキリスト教に強い関心を抱いたか、そして後者がなぜ孔子を神格化したのかを考えるべきでは。公羊学者だったからでは答えにならない。当時の公羊学者は彼のほかにもいたが、孔子の神格化まで踏み込んだのは彼だけだった。
いったいに、中国儒教史における考証学から公羊学への転換あたりの情況についての考察が、やや通り一遍な気がする。
(春秋社 2014年1月)
ただ、いくつか疑問におもったこともある。知識量やその解釈の仕方にではなく、その上にたって氏が展開される論理にである。
まず、天人相関思想が『管子』に法治主義の傾向、それも自然法的なそれを与えることになったのなら、同じく天人相関思想を大いに唱えた儒家の董仲舒にも同じ傾向が見られてよい筈ではないか。『管子』の天人相関思想を指摘して董仲舒の場合にはそれに触れないのは私から見れば不公平と感じられる。
それから、氏の問題意識においては横井小楠と康有為をもうすこし重く扱う必要はないだろうか。前者がなぜキリスト教に強い関心を抱いたか、そして後者がなぜ孔子を神格化したのかを考えるべきでは。公羊学者だったからでは答えにならない。当時の公羊学者は彼のほかにもいたが、孔子の神格化まで踏み込んだのは彼だけだった。
いったいに、中国儒教史における考証学から公羊学への転換あたりの情況についての考察が、やや通り一遍な気がする。
(春秋社 2014年1月)
懐徳堂とその人脈が出てこないのは江戸の朱子学と銘打つ以上は当然かもしれないが、実学者と蘭学者が出てこないのはこれは割符の半分を欠くようにも思う。「朱子学と近代化」を論ずるのであれば(第10章)。端的に1人を挙げるとすれば、志筑忠雄であろう。
ただし朱子学の「理」は作用因を持たないという指摘(第8章181頁)は重要である。著者は「理自体は単独では自他を動かすエネルギーを持たないということである」という点から論じておられるのだが、私は別の意味で重要な特徴であると考えている。
作用因がないということはつまりは時間の観念が理にはないということである。理になければ気、ひいては気から生まれる陰陽ひいては五行にもないということである。ところが朱子学ではこのあたりが曖昧に付されている。この時間の概念の曖昧が、「近代化」の座標から見る際の朱子学の致命的な欠陥となっている。朱子学的思惟から力学的思考が発展しない原因になっているからだ。
さらには、この指摘は、ニーダムの陰陽理解が誤っている所以(時間軸を取って波動と解している)をも読者に教える。
(筑摩書房 2014年1月)
ただし朱子学の「理」は作用因を持たないという指摘(第8章181頁)は重要である。著者は「理自体は単独では自他を動かすエネルギーを持たないということである」という点から論じておられるのだが、私は別の意味で重要な特徴であると考えている。
作用因がないということはつまりは時間の観念が理にはないということである。理になければ気、ひいては気から生まれる陰陽ひいては五行にもないということである。ところが朱子学ではこのあたりが曖昧に付されている。この時間の概念の曖昧が、「近代化」の座標から見る際の朱子学の致命的な欠陥となっている。朱子学的思惟から力学的思考が発展しない原因になっているからだ。
さらには、この指摘は、ニーダムの陰陽理解が誤っている所以(時間軸を取って波動と解している)をも読者に教える。
(筑摩書房 2014年1月)
丹念に読んでみたが、語彙と表現の出典の基準が滅茶苦茶である。上は春秋戦国時代から下は同時代、横は諸子百家から経書を経て所謂当時の時文に至る。日本語漢語(「理由」)まである。文体として統一がとれていない。深文言と浅文言の語彙表現の線引きは例外はあるが、だいたい秦と前漢の間で引くから、この康の文章は両方に跨がっているということになる。韓愈・柳宗元また欧陽脩以後の古文といえないこともないが、少なくとも清代の桐城派の「古文辞類纂」の基準からは外れている(時文や日本語からボキャブラリーを借りている)から、当時の主流的な観点からいえば古文とも呼べまい。破格の文章である。だがその代わり達意と叙述の妙を得た。
ちなみに曾国藩は桐城派と言われることがあるが、康についていまここに述べたのと同じ理由でそうとはいえないだろう。もっとも彼を別に一派を立てた人とみる向きもある。
ちなみに曾国藩は桐城派と言われることがあるが、康についていまここに述べたのと同じ理由でそうとはいえないだろう。もっとも彼を別に一派を立てた人とみる向きもある。
ダルマキールティの『釈量論(プラマーナ・ヴェールティカ〔正しい認識手段の詳解〕)』が漢語へと訳されたのは20世紀であることを知った。法尊(1902-1980)によってチベット語から。第二章「翻訳に従事した人たち 訳経のおおまかな歴史」、本書47-48頁。
(岩波書店 2013年12月)
(岩波書店 2013年12月)